7 和田地区

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 和田地域の範囲は江戸時代に一つの村であったが、一時期、二人の旗本支配があり上(あげ)和田村と中和田村に分けられた。その後、明治になり再び一つの和田村となる。村の中はいくつかの講中に細分され、上和田は上和田・原並木・関戸並木の三講中に三分される。これに対し、中和田は単独で講中となっている。また、日野領百草(もぐさ)村(現日野市)を本村とする飛び地の百草講中が明治期に和田村に編入されている。江戸時代にこの百草講中を成立させたのは、草分けと呼ばれる八軒である。平成五年に至るまで、この八軒は本村の鎮守である百草八幡神社(日野市)の氏子として年番の役も勤め、九月十五日の祭礼に参加し、神社再建時の費用の負担もしてきた。しかし、百草八幡神社は距離的にも遠く、愛宕神社や十二神社の氏子ともなっていることから、平成五年を最後に百草八幡の祭祀組織から脱会した。
 なお、百草講中は明治時代より、形式的には和田地区の鎮守神社(十二神社と愛宕神社)の氏子となっているが、正式参加は昭和になってからのものである、とされている。
 和田には上和田に愛宕神社、中和田に十二神社の二社が村の鎮守として祀られてきた。