愛宕神社

408 ~ 410
祭神は、迦具土大神(かぐつちのおおかみ)である。
『新編武蔵風土記稿』では、「…当社ハ伊野十左衛門ガ建立スル所ナリトイヘリ、コノ十左衛門ト云ハ村民新蔵ガ先祖ニテ天文年中コノ地ノ検地アリシトキ、ソノ事ニアヅカリヨシナレバ、古キ勧請ナルコトハオシテ知ラル、始ハ村民ノ持ナリシニヤ、寛永十年ヨリ高蔵院ノ持トナレリト云」とある。明治三十三年の「社寺明細帳」では雑社で氏子が六〇人と記される。昭和初年までは上和田のみで祀っていたとの伝承もある。ニュータウン建設前は地区内の南端の愛宕山山頂にあったが、昭和四十五年にニュータウン建設にともない現在地に遷座した。昔から今日に到るまで、七月二十四日の本祭りの前夜に夏の悪疫払いの御焚き上げの神事が行われている。

写真5-25 愛宕神社


写真5-26 本祭り前夜の「御焚き上げ」

〈境内末社〉 境内の東隅に、御嶽神社と榛名神社の小祠を祀り、西隅に「愛宕神社遷座記念碑」(昭和四十八年七月二十四日建立)がある。
 七月二十四日が祭日で、九月の十二神社の祭りに対して夏祭りと称されている。氏子に勤め人が多くなった近年では七月二十四日に近い日曜を祭日とし、その前日を宵宮としている。宵宮の晩には夏の悪疫払いのお焚き上げの神事が昔から行われている。戦前までは小字ごとの年番が農家から麦ワラを集め、材木に重ねて大きな火とした。戦前一度祭りを見送ったところ、村内に伝染病が蔓延し、以後今日まで欠かさず行っている。
 現在の規模は以前ほどではなくなったが、やはり麦ワラを重ね大きく燃やしている。境内にはテントが張られお神酒の接待が行われる。翌日の本祭りには、神主による神事の後、上和田地区に子供神輿を渡御させる。十二神社と同様、直会を境内で行うのを習わしとしている。
 また、近年では社殿内に新年初参りの人々のためにお札を頒布したり、甘酒を振舞う受付を設け、除夜から元旦の朝八時ころまで応対している。
 現在、十二神社と愛宕神社の両社を鎮守とする和田地区では、明治以来の住民は両社共通の氏子とされてきた。そこで、昭和六十年ころ、改めて和田地区に居住するすべての人々を対象に両社に共通する奉賛会を発会させた。その結果、ニュータウンの団地住民も含めて約四〇〇軒が会員となった。奉賛会の組織は会長一名、副会長三名、会計二名、会計監査二名のほか地区ごとの連絡役として一〇数名の幹事が選任されている。現在、会費は一般会員が一〇〇〇円、特別会員が三〇〇〇円で、古くから住んでいる人々を中心に六〇名ほどの特別会員がいる。会員には、祭礼に際して神社のお札と祝いの手拭が配られる習わしとなっている。
 その一方、宗教法人としての登録や神社会計の関係上、二つの神社は個々に責任役員ほか総代を選出し、その数は両社あわせて責任役員四名、総代一一名となっている。一応形式的には、神社ごとに選出された役員と総代は別人であるが、実態は選出された者すべてが両社にかかわる役を担うものとなっている。