庚申講

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庚申(こうしん)信仰は中国の道教を起源とする民間信仰である。道教では、人間の体内にいる三尸(さんし)の虫が、その人を早死にさせようと、六十日に一度巡って来る庚申の夜に、人が寝ている隙をみて体内から抜け出し、その人の罪を天帝に告げるとされた。そこで庚申の夜は、眠らずに行いを慎むことが良い、とされるようになった。この徹夜を守庚申(しゅこうしん)と呼んだ。この守庚申の信仰は、奈良時代の末ころからわが国の宮廷を中心に広まり、やがて仏教や修験道・神道などと習合して、庚申待の習俗として民間にも広まった。
 民間における庚申待の習俗は、多くの場合人々が集まって講を作り、庚申の掛軸をかけて祈りをすませ、講員が飲食を共にし、世間話をし、その夜のひと時を共に過ごす、というものである。
 多摩市内における庚申信仰の広まりは、市内の路傍に建てられた三八基の庚申塔によって知ることができる。まず、その分布をみると、市域のすべての地区で庚申塔が建てられている。そして、造立年代を比べてみると、関戸地区に建てられた寛文三年(一六七三)の庚申塔が最も古く、以後十八世紀前半までに半数以上が建てられている。庚申塔を造立者でみると、「講中」と彫られるものが一一基、「同行」と彫られるものが四基、複数の人名が彫られるもの八基となり、居住地の人々が集団として庚申信仰や行事を執り行っていたことが判かる(『多摩市の石仏』)。

写真5-43 八坂神社境内の庚申塔

表5-6 多摩市内の庚申塔一覧
『多摩市の石仏』昭五十三年刊より
地区名 造立年月日 主要銘文(部分的省略あり) 所在地
関戸 寛文十三年(一六七三)二月八日 奉建庚申之人族七人 霞ケ関
寛保三年(一七四三)十二月吉祥旦 奉造立庚申供養 霞ケ関
寛政八年(一七九六) 庚申塔 熊野神社
連光寺本村 享保十六年(一七三一)十一月吉祥日 奉造立庚申為二世安楽也 講中廿七人善男子 本村
寛政四年(一七九二)十一月吉祥日 庚申供養塔 武州多摩郡連光寺講中 本村
連光寺馬引沢 安永元年(一七七二)十二月 武州多摩郡連光寺 増田・相沢・小形の人名 諏訪坂
連光寺東部 文政十二年(一八二九)九月吉日 武州多摩郡船郷講中 向の岡
貝取 宝永元年(一七〇四)十月吉日 庚申供養一会結装柚木領貝取村同行十一人 小字六号
宝永二年(一七〇五)十月吉日 武州柚木領瓜生村同行 小字八号
元文五年(一七四〇)中秋吉旦 奉講庚申供養塔 天下泰平 講中貝取村 小字六号
年代不明 西念寺・三左エ門(ほか七名) 小字十八号
乞田 正徳三年(一七一三)正月吉祥日 奉信敬庚申尊除□与楽子孫繁昌祈所 乞田村 久保谷地蔵堂
享保七年(一七二二)十月十九日 奉納幸神講 武州多□郡 柚木領 乞田村 永山橋際
享保七年(一七二二)十月吉日 奉信敬青面金剛転禍為福祈所 武州乞田村 大貝戸
享保一八年(一七三三)十一月吉日 奉造立庚申供養講中安全所 施主講中拾人 平戸
落合 元禄二年(一六八九)三月廿三日 奉供養庚申為二世安楽 稲荷前
宝永三年(一七〇六)二月吉祥日 奉造立庚申供養如意修 武州落合村青木葉 青木葉
宝永五年(一七〇八)二月吉日 奉待庚申供養  同行六人 稲荷社入口
享保五年(一七二〇)十一月吉辰日 講中二十五人 上之根
寛政十一年(一七九九)十月吉日 施主 峰岸□右エ門(ほか五名) 土橋稲荷社
寛政十二年(一八〇〇)十月吉日 施主 横倉与兵衛 土橋稲荷社
年代不明 (銘文なし) 鶴ケ峰
年代不明 庚申塔 鶴ケ峰
和田(百草) 元禄十三年(一七〇〇)十一月日 (人名多数) 武州多摩郡 地蔵堂前
宝永二年(一七〇五)三月吉日 武州□□和田村 愛宕神社境内
正徳三年(一七一三)□□吉日 □□奉信敬庚申塔 武州多摩郡和田村 小学校裏
天明三年(一七八三)十二月吉日 庚申供養塔 武州多摩郡中和田村九人 小字十七号
明治十五年(一八八二)十二月日 庚申塔 和田村下組 願主 露木国蔵 鈴木家前
年代不明 (銘文なし)
明和六年(一七六九)正月吉日 百草講中八人 百草
東寺方(落川) 享保八年(一七二三)十一月吉日 武州多摩郡 寺方施主 小字六号
明和二年(一七六五)十月吉日 当村念仏講中 宝泉院門前
明治九年(一八七六)十二月吉日 有山 小字二号
年代不明 不明 小字二号
元禄十四年(一七〇一)十月日 森沢五左衛門庄八郎(ほか五名) 庚申神社(落川)
一ノ宮 寛延四年(一七五一) 奉造立庚申供□□ 武州一の宮村 前田
天保八年(一八三七) 奉造立庚申供養  武州一の宮村 下向田
小野路 元文元年(一七三六)□月吉祥日 奉造立庚申供養為二世安楽也 北島ほか六名 瓜生
明和六年(一七六九)十月吉日 庚申供養塔 右□ 大山道・左かな川道 瓜生
※ 小野路は昭和四十八年に町田市から多摩市に編入した地域をさしている。
※ 所在地は、昭和五十三年調査時のもの

 次に、現在どのように庚申信仰が地域の中で習俗として伝わっているのかをみてみよう。今日市域では東寺方地区の有山講中、原関戸講中、落川講中、和田地区の関戸並木講中、百草講中で講行事を聞くことができるが、かつて全市的に庚申塔の造立があったことからすると、必ずしも行事は密度の高い伝承とはなっていない。
 ①東寺方 有山講中 四月の申(さる)の日に旧家の一〇軒ほどからなる有山講中でお日待を行う。戦後一時期祀りを中断したら講中内に不幸が続いたため、昭和三十年ころ復活した。二軒が年番となり会費を集め、お供え物をし、輪番の宿にて食事を共にする。
 ②東寺方 原関戸(宿)講中 地区内の宝泉院の門前に青面金剛像の庚申塔が建つ。かつて庚申の晩に講中の宿に飲み食いの庚申講が行われたがいつしか祀りが廃れてしまった。そこで昭和四十七、八年ころより寺では、門前にまとめて祀られる地蔵や庚申の祀りがおろそかになって来たため、住職が宝泉院の年間供養行事として十月三日に本堂でお経をあげるようになった。地元の人たちはかつての地蔵のお籠りや庚申講に代わり、夕食後本堂に集まり住職と一緒になって、地蔵および庚申の供養の経を上げ、その後、茶菓にてひと時を過ごしている。
 ③東寺方 落川講中 地域内に元禄十四年造立の三猿の上に乗る庚申石像を本尊とする庚申神社(堂)が祀られ十月三日(現在はこの前後の日曜日)にお籠りが行われる。参加者は落川講中の旧家である。昔から豆腐が庚申様へのお供えとされ、また、軽い直会の肴ともされたため、俗に豆腐祭りと呼んだりもしている。かつては、祭りを覗きにきた子どもたちにも、豆腐が振舞われた。また、日中は男たちが豆腐祭りを庚申神社で行うのに対して、年配の女性がお籠りと称して宿廻りの念仏講を催した。女のお籠りは昭和三十年ころには廃れてしまったが、その時使われた鉦と大数珠は今も引き継がれ、今日、男たちが続ける昼の豆腐祭りで、ごく簡単に鉦叩きと数珠回しのまねごとが行われることもある。
 ④和田 関戸並木講中 地域内に関戸並木講中の一一戸で祀る庚申塚と呼ばれる塚がある。この塚には地蔵と共に庚申像が祀られている。十月の初申の日になると男たちは庚申様の日として日中に塚の清掃を行う。男たちの仕事は掃除だけで、その日の晩は年配の女性たちによる念仏行事がオコモリと称して年番の家で行われる。念仏が終ると簡単な食事で歓談をすることを習わしとしている。
 ⑤和田 百草講中 地域内に百草講中七軒で祀る庚申供養塔がある。十月初申の日になると、講中の女性が石像の前で念仏を唱和した。現在は交通事情から年番の家を宿に念仏行事が行われるようになっている。
 以上が多摩市内の庚申講の現況であるが、いずれも地域の女性による念仏行事と習合しているところに特徴がみられる。