御嶽山の山内には、三〇数戸の宿坊がある。その宿坊を経営するのが御師(おし)と呼ばれる修験者である。御師は地元の講中の参詣に当たり、宿を提供するとともに、講中を檀徒として一年に一度講中の家々を回り、神札を配って歩き、なにがしかの金銭や米を徴収し収入としていた。多摩市に廻ってくる御師として服部(連光寺地区の馬引沢、乞田の一部、原島(貝取地区、乞田地区の一部、落合地区の一部)、片柳(落合地区の一部)などがいる。また、落合地区の寺澤伴好氏が原島御師を地元で世話をする講元となっている。
このほか、多摩市内では武州御嶽神社を地区やコウジュウ、クミアイで神社や小祠として祀るところが四か所(貝取地区瓜生講中―御嶽神社、落合地区下落合講中―八坂神社社殿内に小祠として、同中組講中―秋葉神社境内に小祠として、和田地区―愛宕神社境内に小祠として)にある。以下、各地区ごとに行事を記す。
関戸地区の御嶽講は戦前に中断した。代参だけでなく御師も廻ってきていた。連光寺地区の本村(ほんむら)でも中断してしまったが、かつては神札を戸口に貼ったり、畑に挿して盗難除けとした。連光寺地区の馬引沢では、今も旧住民を中心として代参講を形成する。講への参加は任意であるため、かつてほどの参加はいないが、現在一〇数軒が参加している。毎年四人ずつくじで選んで五月に代参する。代参人は講中の費用で御師の服部家に一泊し、本社に参る。帰ったその晩に、馬引沢自治会館で酒と幕の内弁当でお日待ちを行っている。会場には御嶽神社の掛軸が上座に掲げられる。平成三年五月には講員全員で総参りをし、太々神楽(だいだいかぐら)を奉納した。
写真5-44 馬引沢の御嶽講
写真5-45 「御参拝代参帳」表紙
写真5-46 「御参拝代参帳」の一部
貝取地区は貝取と瓜生の二つに分かれる。両地区とも代参講はなくなったが、原島御師の配札は受けている。なお、瓜生では、御嶽神社を地区で祀り、九月の第二日曜日を例大祭とする。また十一月には原島会の総会に、神社の役員と自治会役員が参加している。平成二年には旧家からなる瓜生講中一八軒が青梅市の本社に参り、太々神楽を奉納した。
乞田地区では小字の久保谷・谷戸根・平戸を一つとして、また永山・大貝戸を一つとして御嶽講を営んだ。前者の御師は原島氏で、今は二月の配札だけとなっている。後者の御師は服部氏で、戦後長らく四月十五日に山内に一泊する代参を出していた。講員は旧住民の三〇戸ほどであった。昭和四十五年ころより日帰りの参拝となり、参加者も代参から希望者全員となった。現在では五月中にマイクロバスを使って参拝し、例年一七~一八軒の参加となっている。
落合地区では下落合講中が、旧来からの二〇軒で会費三〇〇〇円で代参講を行っている。お日待ちは、戦前までは各家から米を持ち寄ってご馳走を作った。近年では榛名講の日待ちに合わせて行っている。二月の配札は実施しているが、これもかつては、地元の講元の寺沢伴好氏宅を宿泊先として御師は廻ったが、今は車で来るため寺沢氏は道案内に出るだけとなっている。この地区では昭和二十七年四月八日に太々神楽を奉納しており、御師の原島家にはその折の奉納額が残されている。また、地元で祀る八坂神社の社殿の中に御嶽神社の小祠を祀っている。同じ落合地区の小字である山王下(さんのうした)・中組・唐木田(からきだ)では合同して御嶽講を行っていた。代参は毎年四月中旬に一人ずつ計三名が連れだって出発した。御師の片柳家で休息を取り、御師に先導されて本社に参った。戦前は一泊したが、戦後は日帰りとなった。帰村すると各小字ごとに代参者の家に集まりお日待ちとなった。
写真5-47 御嶽神社(青梅市)参拝のときの餅まき
写真5-48 参拝前の御師宅でのお祓い
写真5-49 瓜生講中の太々神楽奏上の額
(原島御師宅)
戦後しばらくして途絶えていたが、平成元年に復活し太々神楽を奉納し、以後毎年希望者全員の総参りを行っている。なお、地元の秋葉神社境内には御嶽神社の小祠が祀られている。
和田地区では、地区全体を代参講の範囲とし、お日待ち行事も行っていたが、昭和四十年ころ廃止となった。地元の愛宕神社の境内には御嶽神社が小祠として祀られている。小野路地区は服部氏が回ってきた。代参のあとはお日待ちを行った。東寺方地区と一ノ宮地区がそれぞれ代参講と日待ち行事を行ったが、いずれも今では廃止となっている。