大山講

444 ~ 447
神奈川県伊勢原市の大山阿夫利(おおやまあふり)神社は、江戸時代から豊作・豊漁・雨乞いなどの招福除災の山としてあがめられていた。神社の鎮座する大山は雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、ことにその立地に影響を受け、常に峰に雲を頂く山容から、雨乞いに効験があると親しまれた。
 多摩市においては不定期に行われた雨乞いの祈願のほかに、戦前まで定期的に集落から代参を出し、帰村後にお日待ちを行ったという事例が、表5-7のようにほぼ全域で確認できる。
表5-7 多摩市内の大山講一覧
地区名 事項
関戸 八月の盆前に地区から四人が神酒枠を持って代参。代参者は多摩川で身を清めてから出発。水島先導師の宿に一泊し、白装束に着替え山頂に登った。昭和五十年代で廃止。
連光寺(本村) 神酒枠を担いで代参したとの伝承有り。「連光寺赤坂 文政三年」の銘文墨書の神酒枠が伝存。
(馬引沢) 春にくじ引きで定例の代参講を行うほか、渇水時の夏には不定期に代参をたて、持ち帰った水と酒を混ぜて、水を加え、裸で掛け合った。
貝取(貝取) 代参には、腰に鈴を着け自転車で出かけた。神札を戴き、帰村後お日待ちを行った。昭和初期までのことである。
(瓜生) 毎年四月十五日の早朝、代参人は自転車で出発、御師宅で一泊、翌日帰村後お日待ちをやった。
乞田(上乞田) 久保谷・谷戸根・平戸が合同して講を組み、昭和十年ころまで行った。
(下乞田) 大貝戸と永山が合同して講を組んだ。定例の代参は三月だった。地元の小磯家が講元となり、暮れに配札に来る大山の先導師の岡部氏の宿となった。昭和二十五年ころより中断。
落合(下落合・青木葉) 下落合と青木葉が合同、神社に水をもらいにいったという伝承のみ。昭和三十年代中断。
(中組・唐木田) 中組と唐木田が合同。代参は、その日に帰村した。出発前は風呂に入り、新しい着衣に替えた。神水を戴き帰村、村の稲荷社では帰りを待ち受け、酒と神水を混ぜ祈願後、川の源流に水が増えますようにと祈願し流した。昭和初期まで先導師が地元に配札に来た。
和田 中和田ではクミアイごとに代参を出した。百草では神酒枠を使った。
東寺方 地区全体から代参を出し、帰村後お日待ちをした。戦中に中断廃止。吉川先導師が配札に来た。
一ノ宮 代参があった。暮れに先導師が配札にきた。
南野 未調査

 大山講の特徴は、雨降りの効験から、代参者が大山の水を御神水として持ち帰り、地域の農耕水利の無事を願うというものである。連光寺地区の馬引沢では、春に定期の代参を行うが、夏場の渇水期に雨乞いの代参も出すことがあった。この時、代参者は早朝自転車で出かけ、帰村後もらってきた神水とお神酒を盥(たらい)に入れ、水を加えつつ、六尺褌(ろくしゃくふんどし)一つで「サンゲ、サンゲ、ドッコイショ、ドッコイショ」と水を掛け合った、という。落合地区の中組と唐木田では、持ち帰った水と酒を混ぜ合わせ、川の源流に流すということが行われた。いずれも、大山の水に降雨の威力を求めた習俗である。
 このほか、連光寺(れんこうじ)地区と関戸地区および和田地区の小字である百草では、神水を運ぶための徳利を中に入れた神酒枠(みきわく)が代参に際して担がれた、といわれる。このうち連光寺地区の神酒枠は「連光寺村 赤坂 文政三年(一八二〇)」の銘文を持つものが、今日でも保存されている。

写真5-50 大山講の神酒枠

 戦前、市内で広範囲にみられた大山講ではあるが、戦後に継続していたところは乞田地区と落合地区の一部となり、このほかわずかに残っていた関戸地区でも、昭和五十年代を最後に行われなくなった。
 なお、大山講の場合、明治以降、御師のことを先導師とよんでいる。