釣船講(厄神講)

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東京都杉並区に所在する釣船神社を信仰対象とする講である。市域の関戸・落合・東寺方で確認される。
 釣船神社の発行する「釣船神社御由緒」によると、江戸時代の中期に江戸八丁堀の漁師、釣船清次(つりふねせいじ)が船の上で疫神にあい、釣った魚をその神に与えたところ、引き換えに疫病除けの秘法を授かったというものである。以後、神社から出す「釣船清次」と書いたお札を門口に張っておくと病気にかからないという疫病除けの信仰として関東一円に広がったものである。本社は元中央区新富町にあったが、その後埼玉県に移転し、さらに現在は杉並区和泉町一丁目三四番一〇号に移っている。
 関戸地区では、任意加入制の講として現在一四名により、正月・五月・九月の二十三日に輪番制の宿を会場として日待ちが行われている。当日は釣船講の掛軸を出し、榊を飾りお神酒を供えた祭壇を簡単に作る。ご馳走と酒を共食する。五月二十四日が神社の祭典なので、代参を二人立てる。講で保管する道具箱の中の「明治三十六年改正関戸組代参帳」はじめ複数の帳面があるが明治四十四年の「釣船神社頼母子講掛金取立台帳」には三四名が記されている。
 落合地区では釣船講といわず厄神講とされている。同地区には今日、明治十六年から大正十三年までの「落合村講中厄神大権現講中連名帳」と昭和三年から二十年までの「奉納帳」、それに、厄神像の描かれた掛軸が残っている。前者によると講員は落合上組の二一名ほか東中野(八王子市)から二名参加している。五月中に代参人が発ち、帰ると代参人とは別の宿でお日待ちを行っている。後者の帳面には日待ちの記載はないが、記される授与の神符数を講員数として引き当てると昭和三年から十二年までが二〇枚、十三、十四年が一七枚、十五年から二十年までが一五枚となっている。この厄神講も戦後は中断したままとなっている。

写真5-52 厄神の掛軸


写真5-53 厄神の掛軸

 東寺方地区でも、釣船講が行われていたというが、これは昭和十二、三年ころを最後として中断消滅したという。