伊勢講

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貝取地区では戦前まで有志による伊勢神宮へ参拝する講が存在し、一〇数戸が参加し、お札が配られていたという。
 近世の史料によると安政三年(一八五六)貝取村の伊野平蔵、乞田村の有山文平、関戸村の相沢源次郎が中心となり、講の参加者は一口三両ずつ出し、くじで落としたものが順番で代参者として参宮し、太々神楽を奉納する。これを全員が参宮するまで続ける、という伊勢講を組織している。参加者は上記三名のほか、貝取村から五名、貝取村瓜生から六名、乞田村から一八名、和田村から一名、上和田村から二名となっている(安政三年三月「伊勢講連名帳」『多摩市史 資料編二 近世 社会経済』所収)。
 また、落合村の小林平之丞(あるいは平左衛門)は村内の七名、小山田村の二名、相模吉野村の二名と同行して文化十一年正月に伊勢参宮に出発した。彼らは東海道を登り、伊勢から奈良・京都・大坂へと足を伸ばし、中仙道からの帰路に善光寺、日光に寄り帰村している(文化十一年「伊勢山宮宿泊覚帳」『前出書』所収)。落合地区では代参ではなく希望者を募って出かけた話が残っている。