檀家総代は四名で、責任役員と兼任になっている。役割は寺の行事や事業に関して住職の相談を受けることである。檀家総代は住職が任命し、旧家の真藤、相沢、臼井、石阪家が代々引き継いでいる。
高蔵院の墓地には、市内の他寺で聞かれる墓檀家(はかだんか)の呼称はないが、吉祥院の檀家だが墓だけは高蔵院にあるという家があり、和田の峰岸、伊野、柚木姓がこれにあたる。かつて墓のある寺が無住であったり、住職が同じ宗派の寺を転々としていたために、同じ宗派の大きい寺に菩提寺になってもらったためにこうなった。墓檀家の家では、法事は吉祥院で行う。ただし葬式の場合には高蔵院が吉祥院を手伝っている。折々の付け届けは吉祥院に対して行われるが、墓があるということで当寺にも付け届けがある。しかしその額は吉祥院の半分程度である。
写真5-79 高蔵院
元旦には元旦護摩供を行う。高蔵院の本堂には江戸時代の護摩炉があり、元旦には護摩を焚いていたが、先々代に中断した。しかし昭和五十五年になって護摩を復活させた。檀家は初詣を兼ねて参加し、元旦の午後、護摩を焚き、終わると樽酒、甘酒を振舞う。正月の初大師は朝の勤行の後に住職が副住職と共に法要をする。一般の人は集まらない。
二月の節分には檀家を交えての行事は行わない。二月十五日は涅槃会である。先々代の時代までは涅槃団子を作り、年配者が来ていたが、現在では来なくなっている。本堂に掛軸を下げて花を供え、団子も市販のものを供えている。
春彼岸では彼岸の入りから一週間、寺だけで彼岸の法要を行う。この彼岸の間には法事が多く、日中はこのためにほとんど寺を空けている。また塔婆供養も多い。彼岸の間は檀家は墓参りをする。
四月八日の花祭りでは本堂の前に花御堂を飾り、誕生仏を出す。近くに住む年配者を中心に参詣がある。花御堂は平成五年に立派なものを作った。これは彫刻が施され、手前に生花の盛り花を飾るようになっている。昭和四十年代までは、この日に寺にくる子どもも多く、甘茶と菓子を配っていた。
施餓鬼会は八月一日に行っている。この日は檀家と近隣の僧が集まる。集まる僧は昔(昭和四十年前後)は三~四人だったが、付き合いが広くなった現在では、多摩市の真言宗の寺すべてと親戚寺、それに布教師の、あわせて一〇人ほどである。檀家には案内を出し、当日の午後から布教師が法話をし、その後法要となる。この時塔婆供養をする。この時供養した塔婆は檀家が持ち帰るか、または寺に置いておいて盆の迎え火の八月十三日に取りに来る。そして盆の期間中精霊棚に立てておき、十五日か十六日の送り火の際に寺に持ってきて墓に立てる。ただし七月盆を行う檀家はお施餓鬼の日に塔婆を墓に立てる。
盆の期間中は朝の法要を済ませると、棚経のために一日あたり三〇軒の檀家まわりをしている。当寺は五〇〇軒の檀家を持つが、棚経をする檀家は三〇〇軒強である。盆は檀家に合わせて七月から八月まで四回行う。多摩市内を中心とした比較的新しい家の盆は七月十三日から十五日、倉沢(日野市)に住む檀家は七月二十三日から二十五日、中河原(府中市)に住む昔からの檀家七軒は七月三十一日から八月二日、そして和田地区に昔から住む檀家は八月十三日から十五日となっている。寺の近くに住む檀家は八月十三日に寺の墓でお参りをして、家に戻ってから門口で麦殼を燃やし盆棚に灯明を灯ける。そして十五日か十六日になると盆棚の灯明を墓に立てる。
十月十日には琴平様の祭りを行う。この琴平様というのはもともと寺の境内にあったが、明治の神仏分離で愛宕神社の境内に祀られるようになった。その後、多摩ニュータウンの区画整理の関係で昭和四十一年に再び寺の境内に移動したものである。「お金のできる琴平さん」と言われ、かつては和田地域の人々の信仰が篤かった。今では、住職が酒、塩、米、果物、菓子を供え、経をあげている。
上和田(あげわだ)では昭和四十~四十三年ころまで観音講があった。これは男女が集まり、床の間に観音の掛軸を下げて、鉦と木魚を叩いて観音講をあげるというものだった。もともとは家々の持ち廻りで行っていたが、消滅する少し前から寺で行うようになった。また正月には米を三合ずつ持ち寄ってオケンチン(けんちん汁)などを作り皆で食べていた。
境内には聖徳太子を祀った小さな太子堂がある。これは、市内の建築関連業者が祀るもので、毎年、一月二十二日と七月二十二日が縁日で、堂の前に建築関連業者の太子講中が集まり、法要を営んでいる。聖徳太子の掛軸は講中の当番が持ち回りで一年間預かっている。