注連縄・門松

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一夜飾りはするものではないといわれており、注連縄や注連飾りは三十日までに作って、三十日に飾った。間に合わないときには、三十一日に作り、元旦になってから飾るものであった。注連飾りを作るのはその家の主人の仕事だといわれており、きれいに掃き清めた場所でその家の主人が作った。注連飾りは、神棚の注連飾り、荒神のオカマジメ、その他の場所へのゴボウジメの三種があり、形態は家によって異なる。神棚へは、藁を垂らす形が多く、荒神のオカマジメは形が舟に似ているところからフネとよぶ家もある。ゴボウジメは、出入り口や部屋の四隅をはじめ、屋敷神、便所、厩(うまや)、納屋などにかけた。
 門松を立てるのは、二十七日、二十八日または三十日であった。落合地区中組では、共有地であるマグサ場から一〇年目くらいの松を間引いてきた。地区によっては適当な山を持っていないこともあり、山のある家からもらったりしたが、門松だけはよその家の山から切っても許されたともいう。松は、いわゆるサンガイマツ(三階松)とよばれる枝が三段になっているものを用いる。門松を一組作るには、黒松(雄松)と赤松(雌松)の二本を用意した。立てるときは、栗などの木で杭を作り、ジョウグチに杭を打って、そこに松を結んだ。七草のあとに門松をはずし、杭を抜いた跡に門松の一番上の部分を折ってさしておく。この松は枯れるまでそのままにしておく。門松は、ジョウグチばかりではなく、屋敷神の祠などにも立てた。普通、松の芯とよぶ、真っすぐに伸びている上の部分を門松にした。落合地区では、根元の部分からは、三本の薪を作ることがあった。この薪はオニウチマキ(鬼打ち薪)という。家の入口に杭を打ち、杭に松と竹を縄で結び、オニウチマキを三方にたてかける。これを入口の両側に作った。
 戦後まもなく、役場から山林の保護のために松を伐らないようとの通達があり、門松の代わりに門松の絵の紙の札が配られたことがあった。通達と門松の紙札の配布は何年か続き、これを境に門松をたてなくなった家も多い。

写真6-6 紙に印刷された門松