成木責め

517 ~ 518
十四日に柿や栗など成物の木に傷をつけ、唱えごとをする行事があった。これは、一般には成木(なりき)責めとよばれる予祝儀礼であるが、市域では、大正のころにはすでに行われていなかったようで、成木責めという呼称があったかどうかは明らかでない。落合地区山王下(さんのうした)出身の明治三十九年生まれの女性によると、十四日に柿とか栗など成物の木の下で「成るか成らねえか、成らねえと切っちまうぞ」と唱えて、鉈(なた)で三回切るまねをし、木の根元にそばの茹(ゆ)で汁をかけたという。
 『多摩町誌』には「成木ぜめとかもぐら追いなどは古老でさえも知る人はもはやない」と記し、以下、次のように特定の家の行事として記述している。
 十五日の朝「せえとやき」から持ってきた燃えさしの木をじょうぐちにさしておき、夕方この木をもって作男が柿の木を叩きながら「なるか、ならぬか」といえば、後よりついていった女中が、「なり申す」とか、「なると申します」といいながら、次から次へと柿の木を叩いてまわったという。これが「成木責め」である。また、朝早く、さいづちに二メートルぐらいのなわを結え、入口の柱にしばりつけておき、宵のうちに、作男がそのなわを持ち、さいづちを引きずりながら「よこづちどんのおとおりだ」と唱えれば、これまた女中が後より「もぐらどんはお宿かね」といいながら家のまわりを三回まわるのである。

 『多摩町誌』では、この行事を行っていた家は、町の役職についていたいわば家格の高い家の行事として伝えている。