セーノカミの準備は、早いところでは十二月から始めたという。たとえば落合地区の山王下では、冬休みに入ると山へヒデとよばれる松根を取りに行った。山王下のセーノカミでは、このヒデを小屋の中の燃料にした。本格的な準備は、だいたい一月七日の七草が過ぎたころからになる。子どもたちは家々を回り、門松や正月飾りを集め、道祖神の近くに積む。それぞれの家では、正月飾りと一緒に賽銭を渡した。各家を回るときに囃しことばを唱えることもあり、連光寺(れんこうじ)地区では「縄と賽銭、藁おくれ」などと囃したという。子どもたちは、この賽銭で菓子などを買い、セーノカミの小屋の中で食べた。これらの準備は、タイショウ(大将)とよばれるリーダーを中心にすすめた。セーノカミを行うのは、小学生の男児であり、もっとも年長の子からタイショウを選んだ。
かつてのセーノカミの小屋は、中に人が入れるような円錐形であって、中央に炉を切って火を焚くようになっていた。たとえば、連光寺地区馬引沢(まひきざわ)では、セーノカミとよばれている丸い石が置かれてある場所があって、そこに小屋を作った。正月飾りを集めるのは子どもたちであるが、小屋作りは大人の仕事であった。まず、門松の杭(くい)を円形に打ち、そこに雑木や竹をつけ、一番上を縛って三メートルほどの高さの円錐を作る。次にこの円錐の回りを割った竹を横に巻きつけていく。最後に、屋根を葺くように藁をかぶせ、一番上に門松や正月飾りをつけた。円錐の一か所に、人がくぐれる程度の小さな入口を作り、中央に炉を切って、奥にはセーノカミの丸い石を供えた。小屋作りは四日から始め、出来上がると十四日までは、子どもたちが集まって、中で餅を焼いたりして楽しんだ。また、各家を回るときに賽銭をもらい、その金で飴を買って分けた。小屋の中では、菓子などの差し入れがあると、まず、セーノカミの石に供え、それから分けて食べたという。
十四日の夕方には小屋に火をつけ、セーノカミの石とともに燃やしてしまう。セーノカミの石は、その後、また同じ場所に置かれた。馬引沢では、セーノカミの石のある場所が、一〇坪くらいの空き地になっていたため、そこに小屋を作ったが、ほかの講中では、道祖神の付近の類焼の心配のない田に小屋を作ったところが多かった。
南野地区は、かつては小野路(おのじ)(町田市)であったが、ここの荻久保講中では、セーノカミの小屋に火をつけるときに丸い石を投げ込んだという。
写真6-14は、落合地区山王下の平成三年のセーノカミの飾りである。現在の山王下のセーノカミは小祠の中に祀られているが、かつては、路傍にそのまま立てられており、この行事のときだけ、セーノカミの小屋を作った。現在では、セーノカミの小屋の前に写真6-14のよりな小屋を作っている。正月飾りが以前とは違って派手になっているため、小屋も色がカラフルで美しく飾られているが、自分の家で注連縄を作っていたころは、屋根はねじっただけの注連縄で葺くので、分厚く葺くことはできず、もっと簡素なものであったという。
写真6-14 セーノカミの飾り
道祖神の後にはオンベラボウを立てた。山王下のオンベラボウは、竹棹の上部に紅白の水引を結び、その下に五色(または七色)のヘイソクを下げ、ヘイソクの下の竹棹の部分を半紙で巻いたものである。ヘイソクの切り方は、色紙を五枚(または七枚)重ねて半分に折り、四か所に切れ目を入れる。ヘイソクを切る家は、屋号カサの家に決まっており、他の家の者が切ることはなかった。
十四日には、田に作った小屋も大人によって作り替えられる。納められるのは正月飾りばかりではなく、神札やダルマ、三月の節供の人形などもあった。子どもたちが座れるようになっていた内部の空間が篠竹や茅などで埋められ、納められたお飾りなどで飾られる。暗くなると、道祖神の小屋とオンベラボウを田に作った小屋まで運び、お焚き上げをした。今では、ドンドヤキとかドンドンヤキとよんでいるが、以前は、そのような呼称は使わず、みなセーノカミとよんでいたという。
小屋に点火すると、道祖神の小屋も火の中に放りこんで一緒に燃やした。講中の人々は、繭玉の団子や書き初めを持って集まった。書き初めを燃やし、火の勢いで高く舞い上がると、字が上手になるともいわれている。
小屋が燃え落ちて火の勢いが弱くなったころを見計らい、それぞれが持ち寄った団子を焼く。これを食べると病気にならない、風邪をひかないなどという。他の人の団子と交換して食べるとよいなどともいわれている。また、燃えさしの杭を家の前に立てておくと泥棒よけになるともいわれている。オンベラボウは燃やさないで、また道祖神まで持ち帰り、横に倒して、朽ちるまでそのままにしておいた。
セーノカミの行事は、およそ以上の通りであったが、地域によって少しずつの違いがあり、オンベラボウは、立てなかった所もある。落合地区下落合では、写真6-15のような大きなオンベラボウをたてていたが、現在では作ってはおらず、この写真は、平成八年五月三日から五日に行われたガーデンシティ多摩の際に復元し展示したものである。
図6-6 オンベラボウの説明
写真6-15 オンベラボウの上部
一月十五日は、小豆粥を作った。神棚にあげておいたニワトコの棒で粥をかき混ぜた。この小豆粥を十八日までとっておき、十八日にも食べた。十八日に食べると蜂に剌されないとか、頭痛が治るとかいわれた。『多摩町誌』によれば粥をかき混ぜた棒は、四月までとっておき、先端に洗米を包んだ紙をはさみ、苗代の水口にさしたという。
十五日は、嫁が里帰りをする日であった。また、奉公人は藪入(やぶい)りといい、十四日から一晩泊りで家に帰ることができた。
十五日に、青年団の総会をする所も多く、この日に入団、退団が行われた。
十四日に飾った繭玉をはずすことをマユカキといい、十五日、または十六日に行う。大きな笊(ざる)に団子を集めた。この団子は、とっておいて春先の忙しいころの間食にした。