A家三歳の祝い(江戸)

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江戸時代の中ころ、将軍が徳川家治で、後に老中として活躍する田沼意次が次第に力をつけてくるころのことである。おでうは、A家に明和三年(一七六六)に生まれ、明和五年(一七六八)に三歳の祝いを、明和九年(一七七二)には七歳の祝いを行っている。
 まず、明和五年(一七六八)十一月十二日付の「おでう三ツの祝諸入用祝儀請取覚帳」を見てみよう。

写真7-1 明和五年おでう三ツの祝諸入用祝儀請取覚帳(表紙)


写真7-2 おでう三ツの祝諸入用祝儀請取覚帳

 それによれば、隣近所の五人組であろうか忠兵衛・甚右衛門・紋左衛門・市左衛門の四人からは、そろって紙とふし(鰹節(かつおぶし)のことか)が贈られている。全体的には金銭と物品が祝いとして贈られているが、近隣からは金銭は贈られていないことが注目される。紙と一〇〇文を贈った仁左衛門と定平は、祝いの席に子どもも呼ばれているのでこの家の使用人かと思われる。贈られた金銭は、三〇〇文が一人、二〇〇文が二人、一〇〇文が四人、五〇文・三五文・二〇文・一六文が各一人、五〇文以上くれた人では一人を除いてみな紙・苧(からむし)(麻のこと)・木綿布なども贈っている。紙を一帖(原史料は「状」)か二帖付けるのが一般的であったようである。嫁が婚礼後に、ツギメといって講中などに挨拶回りを行うとき、半紙に名前を書いた名刺を持っていくが、このように江戸時代から紙を贈ることは儀礼の重要な点であったことがわかる。他に金銭ではなく、紙か紙とふしを七人が贈っている。以上の一八人が三歳を祝っている。