井上氏の祖母フミは慶応三年の生まれで山崎(町田市)から嫁にきた。読み書きは、ひらかなが読める程度であったというが、物覚えのよい人であった。娘時代に元旗本の屋敷に行儀見習いの奉公に出ており、屋敷の話もしてくれたという。自分の実家のある山崎の話もあったが、それよりも関戸地区の周辺の話が多かった。井上氏が話を聞いたのは囲炉裏端や寝床であり、幼いころには桃太郎などの話が多く、大きくなるにつれ、地域での伝説や世間話を多く聞くようになった。井上氏は、長男であり、跡取りとして育てられた。祖母フミは、跡取りである井上氏に家の話や地域の話をたくさん教えようとしたという。話を聞きたいときには、「ばあちゃん、何々の話やってくれ」とねだった。狼谷戸(おおかみやと)で狼が旅人を襲った話は、この家の近くで起きた話であって、この話をするときには祖母も真剣な表情で話したという。
青年時代には、郷土史に興味を持っている先輩のところへ話を聞きに行ったりした。
井上氏は、このような祖母から聞いた話のうち狼谷戸の話などのいくつかは自分の子どもに話しているが、積極的に話を伝えるようになったのは昭和五十四年に『多摩のかたりべ』を書いた後のことである。この本を書いたきっかけは、テレビ局から農業についての取材を受け、そのときに地域に伝わる話をしたことだったという。自分がした話が映像になったのをみて興味がわき、さらに、長く続けていた短歌の先生のすすめもあって書くことをはじめたという。
写真8-1 市民による昔話などの本