〈猿蟹合戦〉

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昔々あるところに猿と蟹がいたあとよ。猿が「蟹さん蟹さん、これからの道を回りっこをして、途中で落っこっていたものを拾って見せっこしようじゃねえか」「そうしよう、そうしよう」と決まった。「おれがこっちの道を行くから、蟹さんはそっちの道を行きなよ」。猿の歩いていった道には、柿の種が落っこっていた。蟹の歩いていった道には、でっかいおむすびが落っこっていた。それを拾って、向こうで出っくわせた。猿は蟹が持っていたむすびが食いたくなって「蟹さん蟹さん、むすびは食っちまえばそれっきりだが、柿の種は蒔(ま)いとけば、いまに柿の実がうんとなって、毎年毎年食えるから、取りかえべっこにしべえか」と言った。蟹はだまされたともしらず、取っけえた。猿はうまそうにむしゃむしゃと食っちまった。
 蟹は大事に家に持ってけえり、庭先へ蒔いたとよ。水を撒(ま)いたり、肥やしをしたりしているうちに、でっかい木になって、柿がうんとこさあ成ったとよ。でも蟹は木に登れねえから、よく熟(う)んだが、取ることができねえ。そうだ、猿さんとこへ行って、取ってくれと頼むべえや。すると猿がやってきて柿の木へするすると登った。そうしてよく熟んだのを自分で食い、渋いやつを蟹に投げつけたとよ。猿は悪いやつだ。その渋い柿が蟹の甲羅に当たって、死んじまった。
 すると子蟹が出てきて泣いていた。そこへ栗がやってきて「泣くなよ、おれが仇(かたき)を討ってやるから」と言った。その次は蜂がやってきて「仇討ちをしてやるべえ」と言った。その次に臼がやってきて「泣くな泣くな。おれたち三人で力を合わせて仇を討ってやるべえよ」。そして三人が猿の家へ行った。
 ちょうどそのとき猿は留守でいなかった。栗は囲炉裏の中へ入った。蜂はミソベヤ(味噌部屋)へ入った。臼は屋根棟(やねむね)へ上がって猿の帰りを待っていた。
 やがて猿が帰ってきて「ああ寒い寒い」と囲炉裏に火をつけ当たり始めた。そのうちに栗がポーンと跳ね、向こうずねへ飛びついた。「あちいあちい」と言って、ミソベヤへ飛び込み、やけどへ味噌を塗ろうとしたら、蜂がブーンと飛んできてチクンと刺した。「痛え、痛え」と言って外へ飛び出したら、屋根から臼がゴロゴローと落っこってきて、猿を押しつぶしてしまった。そこへ子蟹が出てきて、鋏(はさみ)でチョキンと首を切ってめでたく仇を討ったとよ。これで猿と蟹の話はおしまい。

(南野 萩生田常一)

 一般に「猿蟹合戦」「桃太郎」「舌切り雀」「花咲か爺」「かちかち山」の五話を五大お伽噺(とぎばなし)という。萩生田氏ばかりではなく、多摩市域でこれらの話を聞いて育った人は多く、また、小学校の教科書や絵本などでもなじみのある話である。しかし、あらためて話すとなるとむずかしいようであった。それぞれの話が長く、話すのに慣れていないとあらすじを追うのみになってしまうのである。
 萩生田氏からは「花咲か爺」を語ってもらい、「猿蟹合戦」と「桃太郎」は原稿用紙に書いて頂いた。一般に「猿蟹合戦」では、蜂は水瓶(みずがめ)にひそむことになっているが、ここではミソベヤにいることになっており、やけどには味噌を塗るという民間療法とともに伝えている。
 ここでは「花咲か爺」「桃太郎」は省くが(『多摩市の民俗(口承文芸)』に採録)、「花咲か爺」では「車に積んだ宝物、犬が引き出すえんやらや、雉が綱引くえんやらや、猿が後押すえんやらや」というようにたいへん調子がよい。「花咲か爺」の語りの一部をあげると「そのお墓に一本の木が生えて、どんどんでっかくなったとよ。今日はこの木で臼を作ろうかと、ジッコンジッコンと切ったあとよ。りっぱな臼ができたので、ばあさんと餅をペッタンコペッタンコとついたとよ。すると、臼の中からお金がザクザク出てきたあとよ」というように、擬声語が多用され、「何々したあとよ」というような語尾になっている。このように萩生田氏に話を聞かせてくれた祖母の独特の語り口をうかがうことができ、教科書や絵本とは違った五大お伽噺が多摩市域でも語られていたことがわかる。