池や井戸の伝説

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落合のオオビャク谷戸の奥に影取り池とよばれる池があった。『武蔵名勝図会』には「影取池、小山田境の谷間にありしが、いまは水涸れたる由」とあり、伝承では嵐のために決壊したともいう。名の通り池に影が映ると水中に引き込まれてしまうといい、たとえば尾根道を歩いていても、朝日がさすと池の中に影が映って引き込まれてしまうと伝えられている。また、あるとき、男が、長くて黒い影が自分と同じ早さで動いているのを見たが、その男は行方不明になってしまったという。
 影取り池にまつわる話は次のようなものがある。
 一つは、小山田城の落城とかかわって伝えられる話である。小山田太郎が討ち死にしたあと、奥方がこの池に入水したが、その後、池の中から女性のすすり泣く声が聞こえ、池をのぞいた人を引き込むという。難儀を聞いた高僧が経文を唱えると、急に暗闇となり、姫が白雲に乗って天へ昇っていき、足元には蛙が何匹も従った。それからは引き込まれることがなくなったという。(『落合名所図会』『叢書5』)
 また、町田市下小山田には小山田太郎の妻と侍女が姿を映すとともに引き込まれるように身を投げたという影取りの長池がある。(『町田市の文化財6』)
 また、小山田氏にかかわらない話もある。昔、この池に竜が住んでおり、人が通るたびに美しい女に姿を変え、水に溺れたふりをした。助けようと近づいて、その姿が池に映ると、引き込まれて竜に食べられてしまう。そこへ旅の僧がきて、経文を唱えると、竜は天へ昇り、その後は何事もなくなったという。(『落合名所図会』)

写真8-4 大ビャク谷戸の排水工事(昭和59年ごろ)

 次のような話もある。このあたりは、沼沢といい、紫のアヤメが群生し、アヤメ池という池があった。あるとき、付近の母娘が旅の若者を泊めたことがあった。若者は逗留して農作業の手伝いをしたが、ある日、池の淵に珍しく白いアヤメが咲いており、若者が娘のために取ろうとすると、娘はそれをおし止めた。そのときに夕日がさし、影が池に映ろうとしたが、若者は娘の影をさえぎり「この池に影を映すと不幸なことが起きる」と教えた。その夜若者は急に別れを告げ旅立った。のち娘は「池の白いアヤメの根元に仏像がある」という夢をみて、夢の通りに仏像を祀った。その後よいことが続いたが、ある日、殿様が娘を差し出せといってきた。娘は泣く泣く出かけたが、アヤメ池まで来ると夕日がさし、娘の影が池に映った。すると娘は仏像を抱いたまま池に引き込まれてしまった。その後村に不幸なことが続き、池は影取り池とよばれだれも沼沢には近づかなかった。のち、仏像が見つかって供養したところ、唐木田は平和になったという。(『唐木田物語』)
 ほかにも、池や井戸などもさまざまな伝説が伝えられている。大栗橋の先のお嬢が池は、嫁入りの駕籠(かご)が通ったところ駕籠が軽くなり、気がついたら花嫁がいなくなっていた。以来、嫁入りにはその前は通ってはいけないという。(『叢書5』)
 また、小野路(町田市)の浅間神社のオミタラシ付近に井戸があったが、その井戸にテンゴウ(天狗)が映ったという。
 また、ある沼には片目の魚が住んでいると伝えられているが、それには次のような話がある。あるとき尼寺に賊が入り、尼が殺されてしまった。そののち、寺は滅びてしまったが、そこの境内から水が湧き、沼ができた。その沼に住んでいる泥鰌(どじょう)や鯰(なまず)などはみな片目だったという。この沼の魚を捕まえて食べると片目の子どもが生まれるともいわれていた。(関戸 大正生まれ 男)
 落合地区唐木田に厳耕地(げんごうじ)という所がある。ここに怒り井戸とよばれる井戸があって、天気のよい日でもゴトゴトと音がして不気味であったという。昔、厳耕という法印が老夫妻の家に滞在し、老婆と密通し、共謀して夫を殺し井戸に捨ててしまった。やがて悪事が露見し、二人は磔(はりつけ)になり、その松の木を磔松という。また、死体を投げ込んだ井戸は、雨が降るとモクモクと黒い水が出、怒り井戸とよばれるようになった(『叢書5』)。『多摩町誌』には、老婆と旅僧が磔になって、二人の死体を上ノ井戸・下ノ井戸にそれぞれ投げ込まれたが、承知できぬ両方の井戸からごうごうと水が流れ出し、厳耕地の怒り井戸とよばれるようになったと記している。ここは、祟りのある所だといわれ、後に、その土地の持ち主が石塔を建てた。

写真8-5 厳耕地(中央奥)(昭和50年ごろ)

 宝暦十三年(一七六三)に記されたという「落合村旧記」には、厳耕地について次のような記載がある。「一、唐木田源吾次塚は寛永年中、影取谷に源吾次、佐五右衛門と云う百姓居り、源吾次無妻、佐五右衛門妻と密通し佐五右衛門を殺し古井戸に捨置。ご吟味の上その訳知れ、両人磔となる。右者小山田百姓故に両人田畑は正山寺分となる申伝う。」