稽古

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粉屋踊りの稽古はすべて口伝えであった。もともとは、男性ばかりによって踊るものであった。踊りは、手が細く見えるように、親指を内側に入れ、たいていの場合は肩の前で手をしなやかに動かせといった。しかし、伊勢音頭は所作を大きく、放るように手を動かせといわれたという。丹次郎から習うときには、女形の稽古では両足を膝で縛って踊り、稽古の後は足が立たないくらい疲れたという。

写真8-31 伊勢音頭(昭和17年)

 山王下の粉屋踊りは、農作業の合間にではあるが、丹次郎を中心に一座のような形をとり、近隣の祭礼によばれては舞台をつとめた。また、小金井(小金井市)へ花見に行って粉屋踊りをしたところたいへん評判になり、酒肴をご馳走になったと伝えられている。『川崎の古民謡 下』によると、大正年間には、玉川上水の桜堤、小金井堤、稲田堤などの花見で粉屋踊りを流して歩く姿も見られたというので、このような場所で近隣の粉屋踊りの一座がはからずも競演するようなことがあったのかもしれない。昭和二年(または三年か)に新橋(東京都港区)で行われた郷土芸能の会で優勝し、大喜びで帰ってきたこともあるという。