近隣への伝承

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山王下の粉屋踊りは、山王下の者だけではなく、近くの村からも習いにくることがあった。小野路の別所(町田市)でも習う者が出、別所からは、小野路の荻久保(現在の南野)、栗木(神奈川県川崎市麻生区)へ伝わったという。落合地区の唐木田にも明治のころに山王下で粉屋踊りを習う者がおり、親戚の南大沢の者も一緒に練習をしたことがあるともいう。また、忠生(町田市)や根岸(町田市)、南大沢(八王子市)にも丹次郎の系統の粉屋踊りが伝えられていたともいわれている。このように、山王下の粉屋踊りは、演芸の好きな親戚や知り合いを通じて明治の末年あたりまでに近隣へひろまった。
 このように、明治中ごろから大正時代にかけてたいへん盛んであった粉屋踊りであるが、昭和になって次第に戦時色が強まるにつれ、衰退していった。南大沢では昭和十六年の家族慰安会で踊り、その稽古を見ていた少年たちが現在の伝承者であるが、当時、「青年が白粉(おしろい)をつけてなんだ」と叱られたという。
 山王下でも、戦前の最後の公演は昭和十七年の地蔵のお籠りであった。昭和十七年には、丹次郎はすでに亡く、小泉力造(明治三十五年~昭和五十年)が指導をした。このころになると、女性も踊りに加わるようになり、昭和十七年の公演でも、段物は男性であったが、手踊りは女子青年のメンバーが受け持った。昭和十七年の出し物は、忠臣蔵五段目、忠臣蔵三段目といざり勝五郎などの手踊りであった。伴奏はすり鉦と大正琴だったという。