戦後の粉屋踊り

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戦後は、昭和二十一年のころに忠臣蔵三段目などが演じられたが、その後、行われなくなり、昭和四十三、四十四年に小泉力造の指導によって「新川踊り保存会」ができ、おもに山王下周辺の婦人によって新川と伊勢音頭の稽古をし、公民館などで踊りの披露をした。この活動は十年間ほど続き、その後下火になったが、近年復活のきざしがみられ、平成八年十一月の「いきいきTAMA」では、山王下周辺の住民による新川と伊勢音頭が披露された。

写真8-32 「いきいきTAMA」での粉屋踊り

 南野地区では、荻久保平久保講中に粉屋踊りが伝えられていた。小野路の別所(町田市)から上手な人がきて教えてくれたという。明治三十年代生まれの人たちが、若いころに、かっぽれ、伊勢音頭、新川などを習ったという。戦後も、浅間神社の祭礼のときに、神社の舞台で毎年踊っていたが、伝承者が高齢となったため次第に行われなくなった。区画整理前(昭和五十年代)に復活させようと民謡の踊りを習っているグループが月に一、二回、回り番で宿になり、粉屋踊りの稽古をしていたが、民謡の踊りとは、踊り方が違い、復活にはいたらなかった。
 このように、丹次郎から始まった粉屋踊りは、山王下ばかりではなく、近隣の青年たちに代々受け継がれてきた。山王下では、祭礼や婚礼はもちろん、人が集まれば、だれということはなく、茶碗を叩いて拍子をとり、粉屋踊りの歌が出たという。子どものころから慣れ親しんでいるため、正式に習っていない者でも、自然に口をついて出てきたものだという。