歌詞

681 ~ 683
粉屋踊りは、口伝が原則であったため、資料として残っているものは、戦後に記録されたものである。録音されたものとしては、昭和三十九年に録音されたソノシートがあって、小泉力造ほか数名による伊勢音頭、新川などが録音されているが、音質が劣化しておりはっきり聞き取ることはできない。また、昭和四十年代の製作と思われる二枚組のレコードがあって、これには、小泉力造(歌)、井上眞一(三味線)、青木喜一(すり鉦)とあって、伊勢音頭と白桝粉屋、新川と笠松が組になって録音されている。なお、井上眞一は大塚(八王子市由木)、青木喜一は関戸地区の住人である。
 これらの資料を参考に、歌詞をあげてみると次のようになる。
      白桝粉屋(六九四ページに楽譜を掲載)
サイ ちょいとそうだよ 今出て踊るのが あれが白桝の粉屋の娘か なるほどよい子だ あの子と添うならお水も汲みます 手鍋も下げます 三度に一度は 人の目も忍んで おまんまも炊きます
ちょいと伺うだよ 婿とまたなるには 承知で来なさい あのそれ粉屋は 一代二代の粉屋じゃござらぬ 十代伝わる粉屋のことならば お家のご作法が お肩が弱しと 泣き泣きながらも 粉の箱し(ひ)担いだらばよ 東海道がよ 五十と三次 広しといえども 中でまたとりわけ 小夜(さよ)の中山でな 十六七になる 姉さんたちがよ 小松の木陰で 前掛け襷(たすき)で 飴でこちをせるように せらずばなるまい
サイ ちょい早いのが 粉の箱ひ担いだらばよ 西の方から東の方を ぐるぐる回りて 売らずばなるまい 来たやれそこだ
おや そっこと決めこめ こいさまた一番 どうやらこうやら 子になりそうだ おやまたそうだ 私とお前と こしらいた子だもの よい子ができぬで どうするものか 小僧や小僧 一升桝持ってきな
かかるとも エー おやさんようこうおう(孝行)し 真実あの子と 添わなきゃならんぞや おや あや めでたかりけり次第なり
      新川
オーサヨー あれが新川地引(じびき)の娘かなるほどよい子だ あの子と添うなら 三年三月も 裸になりても ばらでもしょいましょう オヤウントコ シッチョイコメ ベラボニ重テ それはまた愚かよ お喩(たと)え火の中水の底までもねえ 厭(いと)いはいたさぬ アレワノセーヨホホイノホイ
オーサ 新川のお婿となりたや  婿とまたなるには お家のご作法は 網でもすいたり 掛けたり干したり浜綱撚(はまつなよ)うたり はんまんのつけよや 荷縄の締めよや 帆の上げ下げ こべりのふみよや 手綱の加減は どなたにも負けない 櫓でも押しましょ やれ押せそこだ おや私もはらから船頭さんの子なれば 面舵(おもかじ)取り舵しなんでどうしよめな オヤ アレワノセーヨホホイノホイ
ここで葛西(かさい)を誉めるのが 行き過ぎだが どなたもごめんなさい 葛西下町 新川名所でお名の高いのが 同所で氏神 角ではお稲荷さん 東の権現さんは 仕業(しぐさ)して拝みなさい 浜へと出てみな 利根の大川 上りや下りの 茶かせ茶船の それはまた名所な アレワノセーヨホホイノホイ
オーサ 新川で蛤ほじくるともへ 真実あの子さんと添わなきゃならんぞよ アレワノセーヨホホイノホイ ここで新川も めでたかりける次第なり
      伊勢音頭
ゴキトウ(祈祷)ジャゴキトウジャ  伊勢はなヨイトサ 津でもつ津は伊勢でもつサノヨイヨイ 尾張名古屋はヤンデ城でもつ コリャコリャヤートコセー ヨウホンヤナアハハン アリャリャン オヤ コレワイサノ コーノヤレサノセー(*囃子)
マダマダ ゴキトウジャゴキトウジャ 前のヨイトサ角より この座をさしてサノヨイヨイ 七福神が舞い込んで 廓(くるわ)に並んでお酒盛り 布袋(ほてい)にほくろく(福禄)毘沙門(びしゃもん)や それに続いて じろうじん(寿老人)オヤ 弁天様のお酌にて 飲めよ大黒させ恵比寿 中でなヨイトサ鶴亀ヤンデ舞い遊ぶ (*囃子)
マダマダ ゴキトウジャゴキトウジャ かわいいねヨイトサ 男と添いたさままにサノヨイヨイ 白山様へと願をかけ 茶だて塩だてごくまでも 三七(さんしち)二十一日の 断食までもしたなれど それでも添えない縁なれば 神もなヨイトサ仏もヤンデあるものか(*囃子)
      かっぽれ
かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれ塩茶でかっぽれ ここらでよいっとな ヨイヨイ 沖の暗いのに白帆が見える アラヨイトコラサ あれは紀の国 ヤレコノコレワイサノサー ヨイトサッサ みかん船セエー
山を通れば 山がら鳥が えごの小枝でもどりよきる
いざり勝五郎 車にのせて 引けよ初花箱根山

 * なお、これらは口伝であるので、歌い手によって多少違いが出てくる。たとえば、「婿とまたなるには」が「婿さまとなるには」と歌ったり、途中で、エーとかソレという囃子が調子をとるために入ったりすることもある。