昭和46年3月、永山団地の入居がはじまったところ。建物の出入口はまだ地面が露出したままたが、今は芝生や植木が生い茂っている。
(多摩市秘書広報課提供)
多摩ニュータウンの開発は、わが国の高度経済成長の結果とも引き金ともなった都市部への人口集中を背景に、良質な住宅の大量供給をめざして計画され実行に移されたものである。その候補地として現在地に白羽の矢が立ったのには、都心からそれほど距っておらず、交通アクセスを整えれば都心への通勤が比較的至便であること、丘陵地であるがゆえに平地に比べて当時民間の開発の手がそれほどおよんでいなかったこと、しかも高度一〇〇~一五〇メートルのなだらかな部分が多く開発に適していたことなどの理由が、挙げられよう。
この計画が実行に移された結果、昭和四十年代半ば以降多摩市域は人口が急増し、社会経済的、そして文化的にも大きく変貌することになったのである。