発展期

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落合自治会(まだそのころは落合自治連合会ではなかった)が主催し、「納涼盆踊り大会」と銘うって第一回目を開催したのは昭和五十五年八月である。当時、多摩センターの駅前で、現在の交通施設公社の中央3駐車場のあたりがまだ広場になっていたので、そこを住宅・都市整備公団から借り受けて行ったのである(その後会場は適地を求めて何度も転々とした)。その広場は、ニュータウン開発に伴い人々が多目的に使える広場として一時的に整備されていたので、お祭り広場と呼ばれていた。このころから旧落合地区以外の人々も参加するようになり、多摩センター商店会が共催者として加わることになった。ただ、多摩センターが形を整え始めたころだったので、まだ商店会員の数は少なかったようであるが。
 落合自治会が中心になると、各講中から六~七名ずつ、商店会からも六~七名出て、実行委員会が組織された。警備には地元消防団があたった。踊りは民謡踊りではあるが、各講中ごとに炭坑節や東京音頭など得意の曲目をだして踊り、参加者全員では地元の白山音頭を踊ったのである。こうなると青年団や老人会が田畑などの空き地で踊っていたころとは異なり、旧落合地区の人々以外の新移住者の参加者・見学者も多くなり、ポスター作りや会場設営など大がかりになっていった。同時に、盛りあげるために花火大会も行うようになったのである。夜店も多く出、花(祝儀)も多数かかるようになった。
 なお開催日は、自治会主催になってもはじめは八月十四日・十五日という盆期間中にしていたが、踊り手の主体となる婦人部の要請により(婦人は当日各家々の盆行事で忙しい)、盆の一週間ほど前に行うことになり、現在にいたっている。