丘陵の先住者たち

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 多摩ニュータウンが建設されるまで、多摩丘陵の一帯は閑静な農村地帯で、まさか遺跡が1,000か所近くも眠っているとは予想もされていませんでした。
 丘陵にヒトが住み始めたのは約3~4万年前の旧石器時代からで、寒冷だった氷河時代が終わる1万6千年前頃になると、縄文時代草創期の土器が造られるようになります。縄文時代早期には丘陵の地形を利用した獣捕獲の陥穴群や半地下構造の竈(かまど)のような炉穴が多数構築されました。中期には大規模な集落が各地に営まれており、もっとも活況を呈しました。それが中期末から後期初になると、寒冷気候で居住環境が丘陵から沖積地(ちゅうせきち)に移ったらしく、一転して遺跡が希薄になります。晩期から弥生時代になっても丘陵上には人影が少ないが、弥生時代も半ばになると、相模湾や港北方面から境川(町田市、神奈川県)沿いに弥生文化が上ってきて、相模野を見下ろす丘陵西斜面から開発されるようになります。
 これら発掘調査の成果品はいま、多摩センター駅近くにある東京都埋蔵文化財センターの展示室で見ることができます。(安孫子昭二)
多摩ニュータウン地域遺跡分布図

多摩ニュータウン地域遺跡分布図

[『東京都埋蔵文化財センター平成9年度展示解説』より]

遺跡の分布密度は西高東低である。東側がまばらなのは、昭和40年代に開発側に急き立てられて任意の遺跡調査会が諏訪、貝取、愛宕地区などを調査した範囲である。その後、旧石器遺跡も検出されて調査の進捗が遅れるようになり、1980(昭和55)年に東京都埋蔵文化財センターが設立されて組織を挙げた発掘調査がおこなわれ、2006(平成18)年にようやく終了した。


旧石器人の生活跡

旧石器人の生活跡

[『多摩ニュータウン遺跡昭和57年度第4分冊』より]

吉祥院の東側斜面のNo.769遺跡から約2万年前の遺跡が発掘された。旧石器人が解体した獣の肉を石焼き料理にした集石遺構や、石器や石器製作の石片が周囲に散布する。


陥し穴(おとしあな)

陥し穴(おとしあな)

[『多摩ニュータウン遺跡昭和57年度第4分冊』より]

長さ1.5m、幅1.0m、深さ1.5mほどの楕円形の陥し穴が丘陵のいたる所に掘られている。底面に逆茂木(さかもぎ)を埋め込んだ小穴があり、杭は落ちたイノシシなどの逸出を妨げる工夫らしい。


炉穴

炉穴

[『東京都埋蔵文化財センター研究論集26号』より]

ヒトが穴の中で焚火をしたため一端が赤く焼土化している。燻製をしたらしい。露天のままでは雨水が浸入するので簡単に小屋掛けされていたはずである。


縄文中期集落

縄文中期集落

[『東京都埋蔵文化財センター研究論集26号』より]

縄文中期集落/八王子市堀之内No.72遺跡
5300年前から800年続いたニュータウン地域で最大の規模の集落。竪穴住居が何度も建て替えられて重複が著しい。


多摩市和田・多摩第二小学校出土の縄文中期土器組成

多摩市和田・多摩第二小学校出土の縄文中期土器組成

[多摩市教育委員会所蔵]

大栗川下流域の中規模な環状集落・和田百草遺跡14号住居跡から一括出土した。大形深鉢は約50㎝、中形深鉢は30㎝ほどで、小形浅鉢が1個体だけ混じっている。1家族の土器組成にしては多過ぎるので、共同体の什器であろうか。なお、上流3kmにある最大規模の環状集落の多摩ニュータウンNo.72遺跡との関わりが想定される。