多摩川を挟んで武蔵国府の対岸にあたる関戸は、鎌倉街道上ノ道が通り、宿(しゅく)が置かれ市(いち)が立った交通の要衝でした。『曽我物語』には、源頼朝が鎌倉から上野・下野の狩猟場に赴く途中、関戸宿を通った時、平将門がここに関を立て藤原秀郷が「霞の関」と名付けたことを偲んだと出てきます。関戸は、「霞の関」として多くの旅人の歌に詠まれました。
関戸はたびたび合戦の場ともなりました。なかでも1333(元弘3)年5月16日の新田義貞軍と鎌倉幕府軍との、分倍河原合戦に続く関戸での戦いは、幕府方を潰滅させるような激しい戦闘となりました。『太平記』には横溝八郎・安保入道などが奮戦して討ち死にした様子が描かれています。
また関戸は武蔵国府の境界地域にあたり、都市の周縁の葬送地でもありました。鎌倉末期から室町時代にかけて、川を見下ろす街道沿いに、供養のため板碑という塔婆がたくさん造立されました。関戸の観音寺の一角に今もその板碑の一部を見ることができます。(鎌倉佐保)
『曾我物語(真名本)』第5巻 (部分) 南北朝期成立
[東京国立博物館所蔵(Image: TNM Image Archives)]
1193(建久4)年部分。源頼朝は鎌倉から上野国に向かうとき関戸宿に宿泊し、霞の関の故事を偲んだ。
霞ノ関南木戸柵跡想定図
[『歴史ミュージアムガイドブック』より(『多摩市史 通史編1』を元に作成)]
1955~64年(昭和30年代)頃の調査で柱穴が見つかったというが、年代など詳細は不明である。
松田盛秀判物 1555(天文24)年1月
[多摩市教育委員会所蔵旧杉田勇家所蔵]
戦国時代、関戸には商人や参詣者を泊める宿があったことが分かる。
鎌倉街道上道
[『関戸合戦』より(『多摩市史』をもとに作成)]
関戸古戦場跡、安保入道の墓、無名戦士の墓などの伝承がある。
八郎塚(横溝八郎の墓) 2006(平成18)年11月
[公益財団法人多摩市文化振興財団撮影/『関戸合戦』より]
鎌倉幕府方として関戸合戦で奮戦し、討ち死にした横溝八郎の墓と伝えられる。関戸5丁目。
『太平記』巻10 14世紀成立
[府中市郷土の森博物館所蔵/『関戸合戦』より]
1333(元弘3)年5月16日、関戸において新田義貞軍と鎌倉幕府軍の激しい戦闘がおこなわれた。
阿弥陀三尊来迎画像板碑 1322(元亨2)年8月造立
[小山幹男氏所蔵・多摩市教育委員会保管/『関戸合戦』より]
1936(昭和11)年に関戸の崖から発見された板碑の一つ。阿弥陀三尊の画像が刻まれている。