室町時代になると関戸を中心とする吉富郷(関戸郷)は、鎌倉府の直轄地となり、鶴岡八幡宮に寄進されました。1454(享徳3)年に享徳の乱が起こって戦乱の時代となると、吉富郷は周辺の武士に押領されましたが、鶴岡八幡宮は関東管領上杉房顕(ふさあき)を頼って吉富郷の支配を回復し、その後も堀越公方(くぼう)足利政知に訴えるなどしてなんとか支配を続けました。
16世紀初め、小田原北条氏が武蔵国に勢力を伸長し、多摩川中流域を勢力下におさめた後も、鶴岡八幡宮は関戸郷内に20貫文を確保していましたが、関戸郷は北条氏の直轄領とされ代官松田憲秀や、給人深谷氏・斉木(佐伯)氏・小林氏などに宛て行われました。現地では、松田氏から有力住人有山源右衛門が関戸宿の管理や関戸郷の年貢納入などを任されました。北条氏が1590(天正18)年に豊臣秀吉に滅ぼされた後も、有山氏は関戸村の有力者として存続しました。(鎌倉佐保)
鎌倉公方足利氏満御教書写 1379(康暦元)年
[国立公文書館所蔵/『関戸合戦』より]
吉富郷が関戸とも称されており、若宮(鶴岡八幡宮)の所領となっていたことが分かる。
当社記録(香蔵院珍祐記録) 15世紀後半成立
[國學院大學図書館所蔵/『関戸合戦』より]
1461(寛正2)年部分。鶴岡八幡宮の記録。関戸六ヶ村の支配について記されている。
関戸要害/『江戸名所図会』 1834~36(天保5~7)年刊
[国立公文書館所蔵]
1494(明応3)年、関東管領家の山内上杉氏と扇谷上杉氏とが闘争し、扇谷上杉定正の拠る関戸要害が陥落した。
聖観音立像 1544(天文13)年
[吉祥院所蔵/『関戸合戦』より]
像の内部には「佐伯豊後」「小林五郎兵衛」など5名の名前が記されている。
松田憲秀印判状 1585(天正13)年3月
[多摩市教育委員会所蔵旧杉田勇家所蔵]
関戸郷内に新宿を立てるため、有山源右衛門に対して開発田を7年間非課税とすることが認められた。
北条氏印判状写 1564(永禄7)年9月
[国立公文書館所蔵/『関戸合戦』より]
関戸郷には月に六度の市を開催すること(六斎市)などが定められた。
松田憲秀判物写 1588(天正16)年9月
[国立公文書館所蔵/『関戸合戦』より]
有山源右衛門に関戸の関銭徴収が申しつけられた。