江戸時代の景観とくらし

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 現在の多摩市の地名である関戸・一ノ宮・和田・落合・貝取・乞田・寺方・連光寺は、いずれも江戸時代に成立した村名です。江戸時代初期におこなわれた「検地」という政策によってこれらの村の範囲と、村に所属する村人が決定されたのです。
 それ以前は「郷」という江戸時代の村より広い地域が存在していました。多摩市域には「関戸郷」と「連光寺郷」がありましたが、このうち「関戸郷」から関戸村・和田村・寺方村・貝取村・百草村(現日野市)・落川村(同)が分立し、「連光寺郷」はそのまま連光寺村となりました。
 多摩市域の村は江戸からおよそ30kmと、その行程はおよそ半日の距離であったため、江戸との行き来は頻繁でした。このことから村で生産された炭は江戸で消費され、多摩川で獲られた鮎は江戸城に上納されていました。多摩市をはじめ多摩地域の村々は、江戸あるいは江戸城をささえる場として重要な役割を担っていたのです。また、市域の村は多摩丘陵に位置しており、田地の多くは谷と谷の間に小規模に開発された「谷戸田」が主流で、田地に引く水も天水(雨水をためたもの)や湧水に頼っていました。(桜井昭男)
中和田村絵図 1836(天保7)年

中和田村絵図 1836(天保7)年

[石阪勝全氏所蔵/『多摩の里山』より]


落合村絵図

落合村絵図

[峯岸虎夫氏所蔵/『多摩の里山』より]


寺方村絵図

寺方村絵図

[多摩市教育委員会所蔵/『消えた寺が語るもの』より]


寺方村・貝取村ほか秣場論所裁許絵図(部分) 1707(宝永4)年

寺方村・貝取村ほか秣場論所裁許絵図(部分) 1707(宝永4)年

[伊野和俊氏所蔵/『消えた寺が語るもの』より]

谷戸(薄茶色部分)が入り込んでいる様子が分かる。


鵜飼 1930(昭和5)年頃か

鵜飼 1930(昭和5)年頃か

[『明治天皇の御杖』より]

江戸時代からおこなわれていた鵜飼は、明治以降は観光の対象となり、川辺では川魚料理屋が客を集めた。


谷戸田 1965~74年(昭和40年代)

谷戸田 1965~74年(昭和40年代)

[大石武朗氏撮影]

多摩の丘陵地における農村の原風景。


炭焼き窯 1970(昭和45)年

炭焼き窯 1970(昭和45)年

[南多摩新都市開発本部関係資料・公益財団法人多摩市文化振興財団所蔵]

多摩地域は炭の産地として江戸に多くの炭を供給していた。