■五流の絵 18世紀の半ばを過ぎると、市域の村々では、俳諧や和歌、国学、剣術など様々な文化活動が盛んになりました。こうした地域の文化を担った人物に相沢五流(1746~1822)がいます。五流は通称を源左衛門と称し、関戸村の幕府領の名主をつとめていました。名主の職務や家業の薪炭販売の傍ら、府中の六所宮(現・大國魂神社)の社家であった関良雪や伊予国大洲藩主加藤泰恒の六男加藤文麗らに絵を学び、50才の時、家督を息子の伴主に譲り、余生を絵師として過ごしました。五流の作品は多摩地域に多く残されており、吉祥院の「霊昭女図」もその一つです。
■允中流(いんちゅうりゅう) 伴主は通称を玄介(源助)と称し、父の五流を越える多芸多趣味の人で、特に蹴鞠(けまり)・生花・和歌に秀でていました。伴主が創始した允中流挿花は袁中郎(えんちゅうろう)流(宏道流)をアレンジしたもので、門人は南多摩地域を中心に現在の埼玉県所沢市や神奈川県厚木市にまで広がっていました。門弟112名の挿花は1841(天保12)年に『允中挿花鑑(そうかかがみ)』として刊行されています。
■関戸旧記と『調布玉川惣畫圖』 五流と伴主の文化活動の一つに関戸地域の歴史調査があります。その成果は天保年間に『関戸旧記』としてまとめられました。『関戸旧記』の特色は二つありますが、一つは「中世の古戦場」という関戸郷の歴史を発見し、関連史蹟を創り出したことです。伴主は文献や出土品の調査などを通じて、1333(元弘3)年5月16日の関戸合戦で討死にした鎌倉幕府方の武将安保入道道堪(あぼにゅうどうどうたん)の墓の特定を試みました。もう一つは、古歌に詠まれる「風光明媚な名所」というイメージを生み出したことにあります。伴主は、小野小町の和歌に詠まれる武蔵野の歌枕である「向岡」を、関戸村から始まる丘陵としています。こうした『関戸旧記』の世界観は『調布玉川惣畫圖』として結実しました。刊行にあたっては、允中流の門人たちの協力があり、相沢家の歴史意識が地域の人々に共有化されていたことがうかがえます。(岩橋清美)