日中戦争の進行とともに1937(昭和12)年以降、都心部にあった陸軍施設や軍需工場の郊外移転が進み、三多摩や相模原には多数の軍事施設が建設されました。1938(昭和13)年には、多摩・稲城両村にまたがり、有煙火薬などを製造する陸軍造兵廠火工廠(ぞうへいしょうかこうしょう)板橋製造所多摩分工場(翌年から多摩火薬製造所)が設置されました。工員として地方から移り住んだ人も多くいましたが、戦況が悪化していくと、立川高等女学校(現立川女子高等学校)の生徒も勤労動員されました。
また1938(昭和13)年には、相模原に陸軍造兵廠東京工廠相模兵器製造所(1940(昭和15)年から相模陸軍造兵廠)が建設され、戦車や砲弾の製造が始まりました。そこで製造された戦車の性能テストが、多摩丘陵でおこなわれることとなり、1943(昭和18)年に設けられたのが「戦車道路」でした。さらに、1944(昭和19)年からは本格的な疎開が始まり、同年8月からの約1年間、多摩村と稲城村には、山中国民学校(現品川区立山中小学校)から、子どもたちが集団疎開しました。(浜田弘明)
多摩火薬製造所の外観 1935~44年(昭和10年代)
[稲城市教育委員会所蔵/『写真で見る稲城今昔』より]
地元では「火工廠」と呼んだ施設で、1937(昭和12)年5月に建設が決定し、翌年11月から操業、その後、拡張が進んだ。
陸軍用地碑 2021(令和3)年6月撮影
[鈴木昭男氏撮影]
多摩火薬製造所建設の際に、用地の境界に埋め込まれたもので、稲城市の城山公園内に現存する。
畠(はたけ)から見た鶴見・川崎市の様子 1945(昭和20)年8月2日
[北島みさを『多摩火工廠 勤労動員日記』より]
多摩火薬製造所に勤労動員された、立川高等女学校生徒の北島みさを氏が描いた絵である。
旧戦車道路建設予定地略図
[『歴史ミュージアムガイドブック』より(『多摩市史 資料編4』・「陸亜密大日記」(防衛省防衛研究所所蔵)より作成)]
多摩村は一部で、柚木・堺・忠生・鶴川の各村にまたがっていることが分かる。
戦車道路の跡地 209(平成21)年4月
[浜田弘明氏撮影]
1984(昭和59)年以降、戦車道路の跡は、尾根緑道として整備され、桜の名所となっている。写真は、町田市常盤町付近。
和田の高蔵院に疎開してきた子どもたち 1944~1945(昭和19~20)年
[増原久代氏所蔵/『街から子どもがやってきた』より]
高蔵院では、山中国民学校5年生の女子21人が暮らした。
無題(荷車を引く子どもたち) 1944~45(昭和19~20)年
[品川区立品川歴史館所蔵/『街から子どもがやってきた』より]
小学6年生だった児童が描いた作品で、米俵と思われるものを運搬している。