「里山」はもともと「人家に近い山」を指す言葉でしたが、農家や村の人々が周りの山野を活用する暮らしの中で長い年月をかけて生み出された景観のことを指して使われます。山野の活用は、人々が生きるために必要なことでした。では、多摩ではどのようにこれらの山野を活用していたのでしょうか。
多摩ニュータウン開発前、多摩には多くの里山がありました。多摩の農家は、農閑期である冬から春先にかけて山に入り、樹木の成長のために状態の良い枝だけを残して枝を切る「モヤカキ」や、雑木林の下草を刈る「下草刈り」、刈った下草や落ち葉を集める「クズハキ」をおこないました。こうした人々の営みにより、山の環境は保たれました。
山の植物は人々の暮らしを支える資源にもなりました。集められた下草や落ち葉は堆肥として、田畑の肥料となりました。山の木は、家屋の建築用材に用いられた他、炭焼きをへて炭となり、家庭のカマド(竈)やヒジロ(囲炉裏)、蚕室の暖房や乾燥、製茶の燃料などに使用されました。多摩で生産された黒炭は、周辺地域にも出荷されました。山から切り出した枝は、縁の下に保管され、薪として用いられました。共有の茅場に自生する茅は、乾燥させて屋根の葺き替えに使われました。
また、山に自生するシノダケを用いて、六つ目の籠である目籠(メカイ・メケエ)が編まれました。メカイは仲買人を通じて都市部で販売され、農閑期の貴重な現金収入となりました。
このように、かつての多摩市では、山林資源を活用するくらしが営まれていたのです。(事務局)