移転途中の風景

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 多摩ニュータウン開発は、それまでの地域の姿を一変させました。乞田川は改修され、鎌倉街道も拡幅工事と直線化がおこなわれ、新鎌倉街道になりました。鎌倉街道旧道を通る大橋の隣には新たに乞田新大橋が建設され、鎌倉街道沿いの石造物や老舗の商店も移転しました。地元の方が撮影した移転途中の写真は、多摩ニュータウン開発という地域の大変貌がもたらした影響の一端を私たちに伝えてくれます。
乞田川改修・新大橋建設工事開始 昭和46年(1971)3月

乞田川改修・新大橋建設工事開始 昭和46年(1971)3月

[有限会社森久保商店所蔵/『多摩・商店ことはじめ』より]


曳家で移転する森久保商店 昭和47年(1972)6月12日

曳家で移転する森久保商店 昭和47年(1972)6月12日

[有限会社森久保商店所蔵/『多摩・商店ことはじめ』より]


店舗解体作業 昭和47年(1972)6月14日

店舗解体作業 昭和47年(1972)6月14日

[有限会社森久保商店所蔵/『多摩・商店ことはじめ』より]


移転途中の麥花塚(ばっかづか)(多摩市指定有形民俗文化財)

移転途中の麥花塚(ばっかづか)(多摩市指定有形民俗文化財)

[(麥花塚)濱田眞治氏所蔵・(写真)市川洋子氏所蔵/『開発を見つめた石仏たち』より]

「麥花塚」は、1881(明治14)年、貝取村の濱田助左衛門が、明治天皇の行幸と自らの喜寿を祝い、人々の和歌や漢詩を彫り、建立した石碑です。麥花塚は鎌倉街道の拡幅時に、場所を数百メートル移動しました。麥花塚に名を連ねた助左衛門の息子・文蔵(吉之)と長吉(正行)は、「乞田鍛冶」という刀鍛冶で、幕末・明治期に新選組や農兵隊・三多摩壮士などに武具を供給したほか、内国勧業博覧会に農具を出品しました。文蔵は町田に出て有名な野鍛冶「ひょうたん鍛冶」となり、正行は渡米後に神田に自転車輸入販売店を開きました。これらのことは、最近になって判明してきました。


文蔵吉之の刀 銘「調布玉川住吉之」

文蔵吉之の刀 銘「調布玉川住吉之」

[要史康氏撮影・浜田文重氏所蔵/『鍛冶屋のあゆんだ幕末明治』より]


ひょうたん印があるメカイ包丁

ひょうたん印があるメカイ包丁

[濱田眞治氏所蔵/『鍛冶屋のあゆんだ幕末明治』より]