開発構想初期の1965(昭和40)年には、もとの地形を生かして傾斜地に住宅を建てる「自然地形案」が検討されていました。この時には採用されませんでしたが、1975(昭和50)年以降、17住区(愛宕地区)と7・8住区(貝取・豊ヶ丘地区)の一部に採用されることになりました。
1967(昭和42)年の都知事交代の際には計画の見直しがおこなわれ、東京問題調査会による総人口を40~45万人に増やす提言や、ロンドン大学ウィリアム A. ロブソン名誉教授による職住近接の提言などが出されました。一方、市役所や住民との話し合いで変更された計画もあります。7住区の貝取地区では、住民からの要望により自然地形が緑地として残されました。
多摩ニュータウン開発は東京都の事業ですが、開発の過程の中で、東京都の状況や社会情勢、市役所や住民との交渉などにより、変更されたり生み出されたりしたものがありました。開発時の試行錯誤は日本最大規模の開発であった多摩ニュータウンにおいて必然とも言えるものであり、今、私たちが目にする様々な風景の中にも、こうした試行錯誤の痕跡が残されています。(事務局)
多摩ニュータウン自然地形案 建物配置計画図 1966(昭和41)年頃
[国(文化庁国立近現代建築資料館)所蔵・大髙正人建築設計資料]
自然地形案は住民とのやりとりが契機で公団が検討し始めたもので、大髙建築設計事務所が担当した。自然地形案には傾斜地に合わせた多様な形の住宅が必要だったが、規格化された住宅の大量供給とは相反するものであり、当初は見送られたものの、後に17住区(愛宕一帯)や貝取山付近の開発に取り入れられた。
多摩ニュータウンのマスタープラン 1965(昭和40)年5月
[『多摩ニュータウン開発計画1965』より]
多摩ニュータウンのプランは、1963(昭和38)年9月の第一次案から始まり、この第6次案がマスタープランとなった。当時の計画人口は30万人。