1971(昭和46)年3月、私は2歳と5歳の息子、夫とともに千葉市から永山団地に移り住みました。昭和50年代、高度経済成長とともに都市の過密化、スプロール化が進み、地方出身のサラリーマン世帯にとって住宅問題は深刻でした。私たちは家賃が安い千葉市内の団地で子育てを始めましたが、長男が喘息気味で二男誕生後は自然豊かなところで子育てをと話し合っていた矢先、多摩ニュータウン入居案内を見つけ1回で当選。入居当時の生活は交通手段、食料や日用品、幼稚園、病院など不便きわまりない暮らしでした。
4月に長男が聖徳幼稚園に入園した時、園庭はまだ整備されておらず、夫たちは早朝からバスで聖蹟桜ヶ丘経由、都心に片道2時間かけて通勤しました。高度経済成長の歪みが「公害」となって吹き出していた時代でしたから、私は生活協同組合(たま生協)、幼稚園父母会や自治会創立に参加し役員を引き受けました。子どもたちは大勢の友達とともに、ザリガ二やクワガタを求めて野山をかけまわり、丘陵での土器堀りに夢中でした。週末には、当時残土置き場だった諏訪南公園に、星座を求めて子どもたちが集まっていました。澄み切った空気と満天の星、子どもたちの歓声、住み良い環境づくりに取り組んだ大勢の仲間たち、懐かしい思い出です。(住田啓子)