多摩ニュータウン計画は、当初、都心部の深刻な住宅難に対処するため、住宅を大量供給することを目的としていました。そのため、団地サイズと呼ばれる1DKから3Kの間取りを中心とする、手狭な賃貸住宅が主流でした。その後、住民からの狭いことへの不満を受けて、3DKや3LDKの間取りが主流化し、分譲住宅の比率も増加しました。調理をおこなうキッチン(K)とは別に、食事をする場としてのダイニング(D)、さらには家族の団らんの場としてのリビング(L)が併設され、生活空間のゆとりが増していきました。1976(昭和51)年には、専用の庭のある低層総合住宅「テラスハウス」、1978(昭和53)年には共有庭を持つ都市型低層住宅「タウンハウス」も登場しています。
人口急増の一方で、交通の不便さはなかなか解消されず、1974(昭和49)年6月に小田急多摩線が永山駅、10月に京王相模原線が多摩センター駅へ延伸されるまでは、「陸の孤島」と呼ばれていました。(浜田弘明)