「太陽と緑の映える街・多摩ニュータウン」私にはまぶしかった。東京で空襲を経験し、田舎へ疎開の後は、住居を転々した私にとって、団地は狭いながらも楽しい我が家となった。子どもたちも日々、永山高校前で貝塚ほり、アパッチ砦へと冒険づくし。一方、報道される「陸の孤島」、「無いもの尽くし」も現実。
一番困ったのは各分野で女性の働き手を望まれながら、学童保育のない事だった。開設は数年後の予定とのこと。必要に迫られ保育園や地域の有志でチラシ配り。皆な初めて。
幸い行政や学校の理解も得られ、空教室を使うことができた。翌年は南永山小学校の校庭にプレハブを設置。
自主運営ではあったが子どもたちは安全安心。ここに至るまで荷はこびや地域への伝言などをしてくれた読売新聞の学生さんたちを忘れない(当時、各家庭へ電話は入っていなかった)。互いに支え合った初期の街づくりを思うと、高齢化ニュータウンも挽歌ではなく萌芽を内抱している。その証しは、子どもたちがすてきに成長している。(浅井典子)