多摩市議会は1971(昭和46)年11月に、これらの課題をクリアしない限り住宅建設が認められない旨の議決をし、多摩ニュータウン開発は一時ストップを余儀なくされました。各課題への対応策が決まり、1974(昭和49)年より開発は再開されますが、すでに住宅不足は改善し始めており、単なる住宅の大量供給では社会的なニーズにこたえられない状況になっていました。そこで、新たなスタイルの住宅である「タウンハウス諏訪」を建設し、人気を集める一方で、鶴牧・落合地区の開発では、富士山への眺望を意識した設計を取り入れ、公園と公園をつなげて駅まで行けるような形にするなど、新たな開発思想のもと作られました。多摩ニュータウン開発は約40年間かかりましたが、その間にはこのような時代の要請に合わせた様々な試行錯誤がおこなわれました。そのため、多摩ニュータウンではバラエティあふれる建築物や街並みが見られるようになりました。(事務局)
「多摩ニュータウンが及ぼす問題点について」 1970(昭和45)年8月
[公益財団法人多摩市文化振興財団所蔵]
多摩町の近況から今後の財政収支の試算結果などがまとめられている。この試算の事例は公団の試算とも一致し、国の報告書でも報告された。
赤字の試算結果を報じた読売新聞の記事 1967(昭和42)年12月10日
[読売新聞社]
今後の試算をしたところ、100億円の赤字という結果が出たことを報じる記事。当時は手動の計算機で試算にも大変な労力がかかった。
多摩市と町田市の行政界変更部分
[公益財団法人多摩市文化振興財団作成]
多摩ニュータウンの多くは分水嶺をもとに境界が決められたが、多摩市と町田市の行政界は分水嶺とずれていた。そのまま開発されると同じ団地が2市にまたがってしまう恐れがあった。境界は1973(昭和48)年12月1日に変更された。