多摩市立図書館/多摩市デジタルアーカイブ

多摩市の文化財

旧多摩聖蹟記念館(市指定有形文化財)

1930(昭和5)年、明治政府の宮内大臣であった田中光顕(みつあき)らにより、明治天皇や皇族の連光寺行幸・行啓を記念して「多摩聖蹟記念館」が建てられました。この建物の設計者の関根要太郎・蔵田周忠は、ヨーロッパの古代から近代までの多様な建築様式を取り入れた設計をしています。

設計にあたり、当時としては、最先端のデザインが採用されました。

1986(昭和61)年度に改修工事を行い、1987(昭和62)年4月12日にオープンし、運営を開始しました。同館は市の指定有形文化財であり、文化財として保護・保存を図るとともに、市民ギャラリーとして広く一般に開放しています。

2002(平成14)年11月28日付で、「東京都の特に景観上重要な歴史的建造物等」に選定されています。

 また、DOCOMOMO Japanによる2021年度「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」の1つに選定されました。 続きを読む

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多摩市の古民家

多摩ニュータウン開発などの開発事業は、昭和40年代中頃以降になると本格化し、市内の農村社会は生活が急激に近代化しました。それまで地域の文化遺産として受け継げられてきた住居形式も大きく変わり、今までの伝統的な住居は取り壊されて新住宅として生まれ変わりました。江戸時代以降に建築された戦前の伝統的古民家は、1975(昭和50)年度には、多摩市内には70棟程が残っていましたが、現在、残っている民家は、川井家住宅主屋のほか数棟となっています。

多摩市では、昭和56年に所有者より寄贈をうけ、解体、保管していた民家を昭和61年度より復元工事を行い、昭和63年4月15日から一本杉公園南側に旧有山家住宅、旧加藤家住宅として整備し公開しています。

旧有山家は、文化財的・学術的見地から、市指定有形文化財として保護・保存を図るとともに、展示施設として公開しています。

また、旧加藤家は、展示施設及び古民家の特色を生かした古民家体験学習、茶会、句会等の団体活動の場として団体に開放しています。

多摩地域の古民家の特徴

多摩市は、大栗川・乞田川の両河川に注ぐ小流の谷戸で緩斜面の狭い台地を利用して屋敷を構え、その背後に竹薮や雑木林がめぐらされて丘陵上部まで続いていました。これは単なる防風林としただけではなく、山崩れへの配慮が考えられています。平坦地では、生い茂る樹林は少なく、防風林としてのカシ・ナラ・ケヤキ・スギ・タケ等の樹々が主屋の背後にまわっています。また、主屋のまわりには、付属屋の土蔵・木小屋・物置・外便所等が配置されています。

●土間(ダイドコロ)

主屋の重要部分で、多目的用途をもっていました。夜なべ仕事・日常の接客等の場所に使用され、奥の方にはカマドや流しなどがありました。従って、ダイドコロが占める面積は比較的大きくとられ、普通の民家では、床上部分の3~4割を占めています。

また、トンボ囗を入った下手に、馬屋・物入のある民家も多かったですが、架構法から幕末以降に建増されたものと考えられています。

●広間(ザシキ)

主屋の中心部であり、古民家「イロリ」を囲んで家族団らんの場であったり、接客の部屋でもあります。

また、ザシキに押板・仏壇・神棚等がとられ、仏事や祭祀にも用いられた部屋で、まさに民家の心臓部として、一番大きい部屋です。

●デイ(オク)

接客主体の部屋であって、上等の造りになっています。柱の仕上も、いち早く鉋が用いられた部屋であり、天井も板張りが多かったです。上層民家の場合は、客座敷への寄り付きの部屋となり、ゲンカン・ナカノマと呼んでいました。

●納戸(ヘヤ)

ヘヤは狭く、閉鎖性の一番強い部屋で、寝間とされています。僅かに、ザシキ側に半間の引込戸構をとる開放部分がありましたが、次第にオク側に、あるいは、18世紀の後半になると、妻側も開放して生活の快適さを求めていました。

●イロリ

明り、暖房、煮炊きを兼ねています。もとは地炉でありましたが床上にあがったものではないかと思われています。また、鍋、鉄瓶などをつるす自在鉤に注目すると、止め木に魚などの細工があります。魚を使うのは水に属するので、火を防ぐという信仰から考えられています。

旧有山家住宅(市指定有形文化財)

この民家は、江戸時代(18世紀前半)の建物と推定されており、建築当初の間取りは、桁行6.5間、梁行3間の広間三間取型です。

構造形式については、寄棟造りでその内部構造は柱と桁や梁で組立てられた軸組に、上部を三角形に組んだ扠首(さす)で構成されています。また、小屋梁構造形式は、下屋構造を取入れられており、1間あるいは2.5問二つ割ごとに柱がたち、その上に桁行・梁行方向に梁材が格子状に組まれている、古い構法で建てられています。

復元にあたっては、茅葺屋根を茅葺形銅板葺屋根とした以外は、できる限り原形に忠実に復元しています。 施設概要

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旧加藤家住宅

この民家は、江戸時代(18世紀後半)の建物と推定されており、建築当初の間取りは、桁行8間、梁行3.5間の広間三間取型でした。

構造形式については、入母屋造りをそのまま復元しましたが、当初の建築を一部変更しています。変更点は、①縁の南側と西側を結んだ②茅葺屋根を茅葺形銅板葺屋根とした③木材の破損・虫損が多かったため、一部に新建材等を用いた④「おく」の部屋は茶道・華道などにも利用できるようにした点です。

旧加藤家は、古民家の特色を生かした活動の場として開放、活用されています。 施設概要

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旧富沢家住宅

旧富沢家は、明治天皇始め皇族方が、1881(明治14)年以来幾度かこの地に兎狩りなどに行幸、行啓した際に「御小休所(ごしょうきゅうしょ)」として利用された由緒ある家です。

主屋は、1812(文化9)年の屋根葺替の記録から、既にそれ以前に建てられていたことがわかります。建築手法、形式などから、推定建築年代は18世紀中頃から後半と推定されています。また、1852(嘉永5)年から明治期に、式台付玄関・客座敷の縁・便所などの改造が行なわれ、移築までに、幾度かの増改築がなされ上層民家としての形を整えたと考えらます。市内で入母屋(いりもや)造りの式台付玄関のある建物は当家一軒だけです。 続きを読む

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