境界争い

 山林を多く含む市域の村むらでは、入会地(秣場)が村境にある場合も多く、当初、境界はあいまいでした。入会地は自給肥料や薪・炭などの燃料を調達する場として、村びとの生活に欠かせない場でしたが、耕作地を拡大するための土地でもありました。こうした入会地の開発や植林などが徐々に進むことで、17世紀半ばころから村境をめぐる争いが多数発生しました。

史料
〔小山村鑓水村大沢村野論裁許絵図〕〔小山村鑓水村大沢村野論裁許絵図〕小山村・鑓水村・大沢村の境界付近で開発が進むなか、秣場の利用方法や不明確な村境が問題となり、争論となりました。この絵図は境界争いが話し合いにより決着し、確定した村境を明確化した地図です。
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乍恐御訴訟申上候御事(間之原新開差留の儀につき)乍恐御訴訟申上候御事(間之原新開差留の儀につき)本町田村・原町田村・森野村・木曽村が共同利用していた間之原の利用をめぐり、本町田村をその他3か村が訴えている古文書です。本町田村が間之原へ勝手に植林した行為は、3か村にとって甚だ迷惑であり、ここ以外に秣場を持たない3か村にとっては、馬の飼育や肥料の入手にも困難になると訴えています。また原町田村が天正10(1582)年に間之原の開発によって誕生したことも記載されています。
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