村方騒動

 江戸時代の初め、村の運営は土豪の系譜を引く有力な百姓を中心に行われていました。その後、村ではこれまでの百姓に加えて、有力百姓の隷属民が独立したり、百姓の二・三男などが分家するなどして百姓が増加すると、彼らの発言力も高まっていきました。そうしたなか、村役人による独善的な行為や年貢、諸役負担、村入用の不明瞭な処理などをめぐって村内で対立も生じました。時には問題が訴訟へと発展し、場合によっては村役人の交替、もしくは追放といった事態になることもありました。

史料
乍恐以書付御訴訟申上候(名主・忠左衛門我が侭にて、御林の松材木を刈り取るなど迷惑につき訴訟の旨)乍恐以書付御訴訟申上候(名主・忠左衛門我が侭にて、御林の松材木を刈り取るなど迷惑につき訴訟の旨)小野路村の名主であった忠左衛門は、幕府の山林である「御林」の木々を勝手に伐採して私的に流用したり、不明瞭な年貢割付を行ったり、村びとを私的に無賃で人足に動員するなど、数々の非道な行為により、村びとから訴えられます。代官による吟味の結果、忠左衛門は10里(約40キロ)四方追放となりました。