村の生業/農間余業

 18世紀半ばころから商品作物の生産が発達し、村に貨幣経済が浸透し始めます。村では農業とともに質屋や醸造業など、さまざまな商売を兼業する家が増え、日雇稼ぎや奉公人稼ぎをする者もみられるようになります。市域では農間余業として、主に男性は駄賃稼ぎ、薪取りや炭の生産、女性は養蚕、機織りなどが挙げられます。特に養蚕業は横浜開港以降の生糸需要の増加にともない、市域では重要な産業へと成長していきます。

史料
以書付奉願候(源三郎の紺屋跡相続人忠右衛門休みにつき株譲り受ける旨)以書付奉願候(源三郎の紺屋跡相続人忠右衛門休みにつき株譲り受ける旨)忠右衛門が所持していた染物業である紺屋の営業権を親類の子之助に譲り渡すことを紺屋頭の土屋五郎右衛門に願い出ています。江戸に住む紺屋頭の土屋は、関東の藍買付けを許可されていた家でした。
差上申一札之事(武州野津田村清太夫外5人隠し酒造いたし候一件につき)差上申一札之事(武州野津田村清太夫外5人隠し酒造いたし候一件につき)酒造業を営むためには営業権が必要で、生産量も決まっていました。しかし酒造制限令が出されている中、その命令に従わず、隠れて酒を造る者や、決められた生産量よりも多くの酒を醸造した者は罰せられました。
議定一札之事(水車商仕につき)議定一札之事(水車商仕につき)源右衛門は水車の設置にともない、設置場所周辺に土地を持つ村びとに許可を求め、了承を得ました。水車は精米や製粉などの動力として利用され、時に村びとにも賃貸しされました。