横浜開港と町田の村むら

 安政5(1858)年、日米修好通商条約が結ばれ、翌年に横浜が開港され、外国人居留地が設けられ、横浜から10里(約40キロ)四方が外国人の遊歩地域に設定されます。市域の多くがこの範囲に含まれ、外国人や外国文化に触れる機会が多くなりました。
 また養蚕業が盛んだった武相地域では、生糸の輸出によって、生糸取引に関係する商人たちは大きな利益を得ました。
 こうして経済的力を増した豪農たちは、経営者として、また地域のリーダーとして、社会情勢にすばやく対応するため、積極的にさまざまな情報を収集しました。

史料
幕末の瓦版幕末の瓦版外国人や外国の物品、ペリーによって日本にもたらされた贈答品などの情報を伝えていますが、内容については間違った情報も含まれていました。
異聞録異聞録多摩郡上小山田村の名主、薄井磯右衛門(盛恭)が書き写したものです。「異聞録」という表題のあるものが4冊、表紙のないものが1冊、合計5冊になります。詔勅・勅語、建白・意見書、触・達、風聞・落書などを幅広く記録しており、小野路村小島家の「異聞録」を借用し、写したと思われます。
幕末の原町田1幕末の原町田1F.ベアトが撮影した幕末の原町田村です。ベアトは、幕末から明治前期に横浜を拠点に活動したイギリス人写真家です。
幕末の原町田2幕末の原町田2晩秋のある日、土方周助が経営する旅籠「本吉田屋」(商工会議所付近)に宿泊したベアトが、北西にカメラを向けて撮影したものです。このあたりが、原町田村の中心でした。
幕末の原町田3幕末の原町田3原町田村の中心を南の位置から撮影したベアトの写真です。