鷹場支配と村

 鷹狩りは、将軍家をはじめ特定の大名のみが認められ、江戸の周辺には鷹場が設けられました。五代将軍綱吉のときに鷹狩り制度は廃止されますが、八代将軍吉宗が復活させたます。市域は鷹の訓練や餌を調達する御捉飼場(おとらえかいば)に指定されました。そのため鷹の餌となる害獣駆除が制限されたり、餌を調達するため、村びとが勢子や水夫として動員されるなど、さまざまな負担を強いられました。

史料
差出シ申一札之事(世田谷領にて猪鹿追込勢子人足の儀仰せ付けられ候につき百姓他出仕間敷旨請書)差出シ申一札之事(世田谷領にて猪鹿追込勢子人足の儀仰せ付けられ候につき百姓他出仕間敷旨請書)世田ヶ谷領で行われる猪鹿狩りの人足として動員される可能性があるため、15~60歳までの村人は待機、準備しておくように命令されました。また村では一行の宿泊の世話や人足負担の義務を負いました。