近世の村絵図

 村絵図は、作成の目的から大きく3つに分類されます。①検地など年貢徴収のために作成されるもの。②支配替えによって新領主が領地の確認のために提出させたもの。③村落間の境界争いの中で、境界を明確に確定させるために作成するもの。この他にも災害が発生した場合に被害状況を把握、報告するために作成するものなど、目的に応じて作成されました。

史料
〔小山村鑓水村大沢村野論裁許絵図〕〔小山村鑓水村大沢村野論裁許絵図〕境界争いが決着し、確定した村境を明確化した地図です。
野津田村絵図野津田村絵図現在市域で確認されている中で、最も古い村絵図です。
野津田村絵図野津田村絵図宝永2(1705)年、幕府領であった野津田村が旗本多賀氏の知行地となったため、新しい領主へ提出するために作成されたと思われます。
小山田邑古絵図小山田邑古絵図下小山田村の絵図です。元禄期(1688-1703)に旗本の柳沢氏・松平氏の相給村になります。家ごとの記号をみると、どちらの領主の支配となったのかがわかります。
武州多麻郡野津田村百姓居屋敷絵図武州多麻郡野津田村百姓居屋敷絵図寛文期(1661-1672)の家数と場所を示した絵図です。
御三給入交絵図(図師村)御三給入交絵図(図師村)幕府領だった図師村が、霊雲寺や旗本の平岡氏・田中氏の知行地となった元禄期(1688-1703)から村内西の秣場が開発される弘化期(1844-1847)までに作成された絵図です。
能ヶ谷村絵図能ヶ谷村絵図元禄期(1688-1703)に旗本3氏の領地となりましたが、正徳5(1715)年、旗本の福井氏に跡継ぎがなく、幕府領になりました。これはその時期の絵図です。
能ヶ谷村絵図能ヶ谷村絵図隣村片平村とは入会地をめぐり、たびたび争論が起きました。
上下図師村絵図上下図師村絵図村の西にあった秣場が開発されているため、弘化期(1844-1847)以降に作成された絵図です。
野津田村絵図野津田村絵図作成年代は不明ですが、鎧ヶ淵堰で塞き止めた水を引き込む用水路に稲の生育に必要ない水を排水する悪水吐樋口が設けられているところから、安政期(1854-59)以降の様子を描いた絵図と考えられます。