当時の神奈川県は武蔵国6郡と相模国9郡で構成され、「武相」とも呼ばれました。地理的に武蔵国と相模国の境界で県の中央に位置する町田は、武相の自由民権運動を一つにまとめ、自由党の牙城と呼ばれるまでに成長させる役割を果たしました。
史料
融貫社規則 | 石阪昌孝らにより結成された融貫社は、南多摩郡を中心に周辺数郡にわたる広域な政治結社でした。1881(明治14)年11月3日に決定した規則で、“民権の拡張”“立憲政体の基礎確立”を目的に掲げています。翌82年の初めからは、自由党の支部として活動するようになります。 | |
国会開設期限短縮建白書 | 1884(明治17)年10月の自由党解党大会で、国会の早期開設を要求する方針が決定され、各地で建白書の提出が計画されます。しかし実際に提出されたのは、全国で南多摩郡の建白書だけでした。提出は翌年4月ですが、この写しから84年11月には本文が完成していたことが分かります。 | |
「凌霜館」の盃 | 1987(昭和62)年、自由民権資料館の裏山で発見されました。破損していますが、「凌霜館」の文字が確認できます。「新築并開場式諸費簿」には、石阪公歴が代金を立て替えて盃をつくったとの記載があります。 | |
中島信行書「自由所棲是吾郷」 | 高知県出身で、明治初年に神奈川県令を務め、自由党副総理にもなった中島信行(長城)が、村野常右衛門へ書いて贈ったものです。「自由の棲む所、是れ吾が郷」と読みます。当時の民権家たちが好んで使った言葉です。 | |
細野喜代四郎覚書 | 小川村の民権家・細野喜代四郎の活動記録です。前半部分には、自由民権運動に参加する過程や出席した演説会・懇親会についての記録が書き留められていて、細野が弁士として活躍する人物だったことが分かります。 | |
民権期の石阪昌孝 | 天保12(1841)年-1907(明治40)年。野津田村の出身で、幕末維新期の地域行政の要職を務めました。責善会に参加する一方、初代の神奈川県会議長となります。1881(明治14)年、原町田で武相懇親会を開催し、融貫社を結成。翌年自由党に入党し、神奈川県の自由民権運動のリーダーとして活躍します。 | |
青木正太郎 | 安政元(1854)年-1932(昭和7)年。相原村の出身で、1881(明治14)年に融貫社へ参加し、82年には学習結社講学会を組織し活動する一方、県会議員を務めています。明治20年代にはいると、急進的な民権派壮士から「軟弱議員」と批判されますが、自由党系県会議員の中心人物として活躍しました。 | |
民権期の村野常右衛門 | 安政6(1859)年-1927(昭和2)年。野津田村の出身で、明治初年、小笠原東陽に学んだ後、責善会・融貫社などの結社に参加、1882(明治15)年には自由党に入党し、青年民権家として活躍しました。翌年に文武館凌霜館を設立して若手民権家の育成にあたり、85年の大阪事件にも参加しました。 | |
細野喜代四郎(33才) | 安政元(1854)年-1924(大正13)年。小川村の出身で明治初年から地域行政の要職を担います。1880(明治13)年に演説討論結社琢磨会を組織し、翌年融貫社に参加しました。82年に自由党に入党、各地の演説会で弁士として活躍します。84年の武相困民党事件では、仲裁活動に奔走しました。 |