大阪事件

 明治10年代後半、政府の弾圧と急激な不況で、自由民権運動が次第に停滞してくると、状況を打開するために急進化した民権家が起こす事件が発生します。それらは激化事件と呼ばれています。
 そのなかで、町田市域の民権家が関わったのが、1885(明治18)年の大阪事件です。大阪事件とは、朝鮮開化派に協力して朝鮮でクーデターを起こし、日本と清国の緊張関係を生むなかで国内の変革をめざす、という計画でしたが、未遂に終わります。この事件には、民権家の国権主義的な側面が色濃くあらわれていました。

史料
村野常右衛門への第一回調書(大阪事件)村野常右衛門への第一回調書(大阪事件)大阪軽罪裁判所で開かれた村野常右衛門に対する予審の調書で、村野がどのように大阪事件に関わったかを探ることができます。村野は、金玉均を同行させての渡韓を主張し、それに必要な金策に奔走したと自白しています。
石阪昌孝書(大阪事件で獄中の村野常右衛門を詠んだ歌)石阪昌孝書(大阪事件で獄中の村野常右衛門を詠んだ歌)石阪昌孝が、大阪事件で逮捕され、獄中にいる村野常右衛門を詠んだ歌です。村野を国のために心を尽くした剛男と讃え、大阪事件に参加した彼の行動は愛国心の道しるべになると評価しています。心を尽くすという意味の文字が「こゝろ筑紫」となっているのは、九州から渡航する計画を意図しているのかもしれません。
神奈川県の大阪事件関係者全員出獄記念写真神奈川県の大阪事件関係者全員出獄記念写真大阪事件の有罪者は、大半が大日本帝国憲法発布の大赦で出獄しますが、強盗罪の者には適用されませんでした。全員が出獄したのは1893(明治26)年のことで、出獄を記念し大磯で関係者が集いました。前列右から2人目が村野常右衛門です。