彼らが青春時代をおくった明治10年代は、父昌孝が民権運動の指導者として活躍した時代でもありました。美那は透谷と恋愛し結婚を決意、公歴は渡米、登志は音楽教師の道を選びます。透谷は、詩や評論などを通し、明治20年代の青年に影響を与えました。
史料
石阪公歴と友人たち | 岡三造、佐藤(琢治か)、吉倉汪聖と一緒に撮った写真で、右から2番目が公歴です。岡は岡山県出身、吉倉は石川県出身で、東大入学を志す仲間です。 | |
新婚時代の透谷と美那 | 1888(明治21)年、23歳の美那は4歳年下の透谷と大恋愛の末に結婚しました。しかし、生活は苦しく、2人の間には葛藤が絶えませんでした。 | |
渡米直前の美那と登志 | 透谷との死別後、美那(左側)は心機一転、アメリカ留学を決意します。別れを前に、姉妹で撮影しました。 |