第1回総選挙では石阪昌孝が当選、石阪の引退後は、青木正太郎や村野常右衛門が代議士を務めます。その間、玉川上水の管理や神奈川県知事と自由党との対立から1893(明治26)年に三多摩が東京府へ移管されました。また、自由党内での対立から石阪・村野らが脱党し、新自由党が結成されるなどの出来事もありました。
史料
石阪昌孝 | 天保12(1841)年-1907(明治40)年。神奈川県の自由党のリーダー的存在だった石阪は、第1回総選挙で神奈川第3区(三多摩地区)から選出されます。その後、4期連続で衆議院議員をつとめました。1896(明治29)年には群馬県知事に抜擢されます。 | |
東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案ニ反対スル理由書 | 移管反対派の神奈川県会議員50名が名を連ねています。国会での移管法案の審議を薄氷を踏む思いで見つめているという彼らは、三多摩が県の大きな財源であり、移管は県に甚大な不利益をもたらすと主張しています。 | |
新自由党結党の精神 | 日清戦争の戦後経営をめぐり、三多摩の自由党は、松方正義内閣と提携して自由党主流派と対立、1897(明治30)年2月に脱党して新自由党を結成します。財政を石阪昌孝、事務を村野常右衛門が担当しての結党でしたが、党運営はうまくいかず短命で終わります。 | |
衆議院議員集合写真 | 村野常右衛門は、自由党と進歩党の合同により生まれた憲政党時代に初当選し、代議士となります。その頃の写真で、前列左から2番目は青木正太郎、後列右から2番目に村野がいます。 |