大正デモクラシー期の政治

 自由党の流れをくむ憲政党は、政党の必要性を自覚していた伊藤博文と手を組み、伊藤を総裁とする立憲政友会を結成します。町田市域をはじめとする三多摩の自由党系の人びとも、この動きを主導した星亨に従って同調します。その中心にいたのが村野常右衛門でした。村野は、憲政党時代の1898(明治31)年に衆議院議員に初当選すると、1920(大正9)年に落選するまで8期連続で当選を果たし、その間に立憲政友会の幹事長や総務委員など党の要職を務め、原敬の右腕として活躍、大正デモクラシー期の政友会を支えました。

史料
石阪昌孝顕彰碑除幕式での板垣退助式辞石阪昌孝顕彰碑除幕式での板垣退助式辞八王子市の富士森公園に建つ、石阪昌孝顕彰碑の除幕式で読まれた、板垣退助の「式辞」です。「沈嘿寡言」でありながら、発言には影響力があるという人間性と、「創業開拓ノ才」と自由党創立時における功績の大きさを讃えています。
村野常右衛門の演説草稿村野常右衛門の演説草稿1915(大正4)年3月の総選挙の時期に行われた村野常右衛門の演説草稿原稿と思われます。第二次大隈内閣を外交、内政、二個師団増設問題などから批判しています。
村野常右衛門の大浦内相告発上申書村野常右衛門の大浦内相告発上申書二個師団増設問題で立憲政友会と激しく対立した第二次大隈内閣は、衆議院を解散して総選挙を行いました。選挙で政友会は大敗しますが、そのときに大浦兼武内務大臣が買収工作をしていたことを突き止めた村野常右衛門は、大浦の告発に踏み切りました。
村野常右衛門・原敬らの集合写真村野常右衛門・原敬らの集合写真立憲政友会の総裁だった原敬とともに徳島を訪れたときに撮影した写真です。中央右側の椅子に座っているのが原敬、村野常右衛門はその後ろに立っています。
村野常右衛門村野常右衛門安政6(1859)年-1927(昭和2)年。明治半ばから壮士に大きな影響力を持つ存在となった村野は、1898(明治31)年の総選挙で初当選、1920(大正9)年まで8期連続で代議士を務めました。13年には立憲政友会の幹事長となり、原敬内務大臣の右腕として活躍します。