戦時下の町田

 年号が昭和にかわった頃から、日本は軍国主義色を徐々に強め、町田市域には地下式トンネル弾薬貯蔵庫や戦車道路、周辺にも陸軍士官学校、相模陸軍造兵廠、陸軍病院などの軍事施設が建設され、軍都化していきます。
 また、15年にわたる戦争では市域でも多くの人が出征し、1135名の戦没者が出ています。
 1941(昭和16)年、尋常高等小学校は国民学校へ改称され、村の諸々の行事や戦時訓練、児童を対象にした軍事的行事が頻繁に行われます。東京で空襲が増え始めた1944年には、市域でも多くの寺院が集団学童疎開を受け入れましたが、1945年に入ると、空襲やB29の墜落が市域でも起きました。

史料
お召しホーム跡お召しホーム跡お召ホームは、1937(昭和12)年に陸軍士官学校が座間へ移転してから、昭和天皇が同校卒業式出席のために利用した宮廷ホームで、JR原町田駅の南側(現在の市営駐車場のあたり)にありました。
「納税報国銃後……」の襷をかける老人「納税報国銃後……」の襷をかける老人丘の上で一服する老人の姿は一見するとのんびりした農村の一風景のようですが、肩にかけた襷には「納税報国銃後……」の文字が読めます。
B29のプロペラB29のプロペラ1945(昭和20)年3月31日の深夜、立川方面で被弾したB29が本町田の町田高等女学校(現都立町田高校)の北側に墜落しました。これは、墜落した機体のプロペラの一部です。
焼夷弾焼夷弾1945(昭和20)年5月26日の午前0時を過ぎたころ、B29が鶴川村小野路に来襲、宿通りの両側にたくさんの焼夷弾が落とされ、10軒が全焼しました。この焼夷弾は、万松寺境内で掘り出されたものです。
空襲で曲がった刀空襲で曲がった刀1945(明治20)年5月26日の焼夷弾による空襲で被災した小野路の田極家にあった刀剣は、火災により大きく曲がり、このような姿に変わり果ててしまいました。
焼夷弾趾が残る万松寺の土蔵焼夷弾趾が残る万松寺の土蔵1945(昭和20)年5月26日に日付が変わったころ、小野路の宿通りや万松寺に大量の焼夷弾が落とされました。万松寺の土蔵には、その時の焼夷弾の跡が今も残されています。