特に、戦後に町村合併により町田市が誕生したのちは、団地開発や土地整理組合による住宅開発が相次ぎ、それまでの農村風景は一変しました。
変貌を続ける町田市の風景から市域の移り変わりを見てみましょう。
史料
関東大震災前の小野路・細野家(角屋) | 関東大震災前の細野家(角屋、現小野路宿里山交流館)前で撮影されました。門の位置は現在もほぼ変わっていません。後ろに見える通りに面した建物は、震災後に取り壊され、板塀に代わりました。 | |
大正期の小野路宿 | 関東大震災前の小野路宿通りの様子です。右手前が細野家(角屋、現小野路宿里山交流館)になります。当時の宿通りは、両側に水路があったことが分かります。電気が通るのは、震災後の大正末のことになります。 | |
原町田二六の市 | 本町田村から分村した原町田村では、本町田村の月に6回開かれる六斎市を分けてもらい、月に3回の三斎市「二の市」が開かれます。江戸後期の商業の発展にともない六斎市「二六の市」となり、横浜開港、横浜鉄道開通により商業地としての賑わいを増しました。 | |
原町田 | 昭和10年代の原町田の様子です。市が開かれていない日でも多くの人が行きかっています。 | |
三輪分校に通う子どもたち1 | 三輪分校に通学する子どもたちの様子です。1948(昭和23)年に竣工した精進場(しょうじんば)橋を渡る子どもたちは、学生服に徽章(きしょう)のついた帽子をかぶり、肩かけかばんのすがたでした。 | |
三輪分校に通う子どもたち2 | 子の神(ねのかみ)橋を自転車を引いて渡る子、鶴見川をのぞき込んでいる子がいます。昭和30年代、三輪の小学生はこのような自然豊かな中を通学していました。 | |
駆け足通り | 横浜線原町田駅と小田急線新原町田駅をつなぐ道は、通勤時間帯に乗り換える人たちで混雑しました。急いで乗り換えのために走る人も多く、通称「駆け足通り」と呼ばれました。現在は、ターミナルロード、パークアベニューと呼ばれています。 | |
原町田駅1 | 移転前の横浜線原町田駅です。現在の町田駅よりも横浜寄りにあり、駅前はバスロータリーになっていました。1980(昭和55)年に現在の位置に移転し、名称も町田駅に変わりました。 | |
原町田駅2 | 横浜線原町田駅の駅名板で木製です。成瀬駅が1979(昭和54)年4月開業、原町田駅の移転は翌年4月なのでその間に撮られた写真です。「なるせ」のところだけ書き直されたため、文字がはっきりしています。 | |
昭和期の小野路宿通1 | まだ道路の舗装がされていない宿通りの風景です。右側には茅葺屋根の家が見えます。 | |
昭和期の小野路宿通2 | 多摩ニュータウンの開発とともに自動車の交通量が増え始めたためでしょう、道路の舗装が行われています。 | |
新原町田駅 | 戦後間もないころの小田急電鉄新原町田駅です。駅舎の右手奥が現在の第一踏切になります。 | |
成瀬駅開業 | 昭和30年代から40年代にかけて、成瀬では土地区画整理・住宅開発が急速に進みます。それに合わせて、横浜線成瀬駅が新たに建設されました。 | |
相原駅 | 横浜線相原駅の旧駅舎です。改修・改装をしながら長らく親しまれていた駅舎ですが、2003年に現在の駅舎に改築されました。 | |
米軍機墜落事故現場 | 沖縄嘉手納航空基地を飛び立ったアメリカ軍ジェット機が、1964(昭和39)年4月5日に原町田の商店街に墜落しました。4人の死者、32人の負傷者を出したこの惨事は、町田市を越えて全国的な怒りの声へと発展しました。 |