用語解説

用語読み時代意味
遺物いぶつ全般人がつくったり、使ったりしたもの。例:土器、石器
遺構いこう全般土地に残された人がつくったり、生活をした痕跡。例:住居、墓
文化層ぶんかそう全般遺物や遺構を含む地層。遺物が含まれる地層を遺物包含層とも呼びます。
関東ローム層かんとうろーむそう全般ローム層とは粘土のような土で形成された地層のこと。関東ローム層は、関東地方に広く分布している地層で火山灰が堆積して形成されたもので、最も上の層は立川ローム層の名称がついています。含まれている鉄分が風化して黄色っぽいため、赤土とも呼ばれます。関東ローム層は、「現代から旧石器時代の地層」においてL1S以下の黄色く表示した地層で、旧石器時代の文化層となっています。
土坑どこう全般人が意図的に掘った穴で、貯蔵、埋葬、狩猟などの用途が考えられます。埋葬に使われたものは墓壙(ぼこう)と呼ばれます。
ブロックぶろっく旧石器時代石器などの遺物がまとまって出土した状態を示し、石器をつくったり、使った場所と考えられます。遺物集中区域と呼ばれることもあります。
礫群れきぐん旧石器時代石が集められて出土した状態を示し、火を受けたものが多いため、調理をした場所と考えられます。
陥し穴・落とし穴おとしあな旧石器時代~縄文時代動物を落として捕まえるために掘った穴。底に小さな穴があることが多く、獲物を殺傷するために先を尖らせた杭を立てた跡と考えられます。
炉穴ろあな縄文時代野外に穴を掘り、その中に炉を設けたもので屋外調理施設と考えられます。
土壙(墓)どこう(ぼ)縄文時代穴を掘ってお墓としたもので、土器などの遺物が副葬されることもあります。穴の周囲に石を並べたものは周石墓、配石墓と呼ばれます。
集石(集石遺構)しゅうせき(しゅうせきいこう)縄文時代掘った穴や地面に石を並べたもので、石は火を受けたものが多いため、屋外調理施設と考えられます。
配石(配石遺構)はいせき(はいせきいこう)旧石器時代~縄文時代石を意図的に配置した遺構です。特に、縄文時代において石を方形に配置したものは環礫方形配石遺構と呼ばれ、石が焼けている場合が多いため、火に関連するお祭りが行われたのかもしれません。
埋甕うめがめ縄文時代縄文時代前期に始まり、主に中期から後期にかけて関東、中部地方において見られる土器を地面に埋めて設置する習俗です。住居内と屋外に設置されるものがあります。前者は民俗事例から乳幼児の埋葬や幼児の健やかな成長を祈願して胎盤を埋納したという説があります。また、炉として土器を転用したものもあり、これらは埋甕炉、土器埋設炉などと呼ばれます。一方、後者は、屋外埋設土器とも呼ばれ、人骨の出土事例もあることからお墓の可能性があります。
敷石住居しきいしじゅうきょ縄文時代縄文時代中期末から後期にかけて関東、中部地方を中心につくられた床に石を敷いた住居です。用途としては、一般的な住居、お祭りに使われた特殊な建物など諸説があります。1925年、日本で初めて高ヶ坂石器時代遺跡で発見されました。出入口が長く伸びたものは柄鏡形と呼ばれます。
環状集落かんじょうしゅうらく縄文時代主に東日本において発達したムラの形態で、中央の広場を囲むように住居が同心円状に配置された構造が特徴です。中期に一般化し、数十~数百軒からなる大型のものも出現します。
ストーンサークルすとーんさーくる縄文時代意図的に石を円形に配置した屋外の遺構で環状配石とも呼び、祭祀などを行った特殊な場所と考えられます。田端環状積石遺構のように石を積み上げたものは環状積石と区別します。
竪穴住居たてあなじゅうきょ縄文時代~平安時代地面を掘り下げてつくった住居で、多くの場合、柱穴や周溝を伴います。調理や採光などのために床に炉を設け、古墳時代以降は壁際にカマドを設置するようになります。竪穴建物とも呼ばれます。
掘立柱建物ほったてばしらたてもの縄文時代~中世地面に穴を掘り、柱を地中に固定した建物で平地式と高床式が想定されます。
縄文時代~古墳時代住居内に設置された火を燃やす場所です。穴を掘っただけのものは地床炉(じしょうろ)、石で囲まれたものは石囲炉(いしがこいろ)、土器を埋めたものを土器埋設炉といいます。
玦状耳飾りけつじょうみみかざり縄文時代「C」のような形状が古代中国の玉器「玦」に似ているため名付けられました。石製と土製があり、耳にはめ込んで装着されたと考えられます。主に縄文時代前期に流行しました。
石棒せきぼう縄文時代男性をシンボル化するように棒状に整形された石器で、呪術的に使われたと考えられます。縄文時代中期から後期に流行し、大型から小型へと変化して、やがて石刀や石剣へ変容すると推定されます。
土偶どぐう縄文時代人を模倣した土製品で、縄文時代草創期に出現し、中期からは顔や身体の表現が明確化し、弥生時代までつくり続けられました。乳房やふくらんだ腹部など女性を表現したものが多く認められるため、多産や豊穣を祈ったのかもしれません。
顔面把手がんめんとって縄文時代土器の口縁部につく人の顔を表現した装飾で、把手としての機能はありません。土器に人面を表現するものは前期から出現しますが、特に中期中頃の勝坂式土器のときに大型で立体的なものがつくられました。顔面把手だけが出土することが多く、土偶のように使われた可能性も考えられます。
注口土器ちゅうこうどき縄文時代液体を注ぐ口がついた土器で、縄文時代中期から存在しますが、後~晩期には精巧なつくりとなり、現在の土瓶のような形態が定着します。出土数が少ないため、祭祀のときに液体を入れ使う特殊な容器と考えられます。
紡錘車ぼうすいしゃ糸を紡いだり、撚(よ)ったりする道具です。石製のほか、土製・金属製・木製のものなどもあります。
横穴墓よこあなぼ・おうけつぼ古墳時代崖や斜面地に横穴を掘って埋葬施設とした古墳のひとつの形態です。多摩丘陵では6世紀末に出現し、7世紀に盛んにつくられました。群集してつくられることも特徴です。構造は、遺体を安置した最も奥の空間である玄室(げんしつ)、玄室から入口へ至る通路の羨道(せんどう)、入口である羨門(せんもん)、羨門の外に広がる屋外空間である前庭部(ぜんていぶ)から構成されます。
土塁どるい中世集落や城などを囲むように築かれた盛り土。
灰釉陶器かいゆうとうき平安時代植物の灰を材料とした釉薬がかかった陶器で、9から11世紀にかけて東海地方でつくられ日本各地に流通しました。
かめ弥生時代~主に煮沸用・貯蔵用に使われる大型の土器です。液体などを貯蔵します。口が広く、胴部がふくらみ、底部がすぼまった形をしています。
須恵器すえき古墳時代~平安時代古墳時代から平安時代まで使われた灰色~灰黒色の焼き物で、土師器よりも高温で焼かれています。
つき古墳時代~平安時代飲食物を盛る器です。埦より浅く、皿より深い形態のものをいいます。
土師器はじき古墳時代~平安時代古墳時代から平安時代までに使われた赤褐色の素焼きの土器です。弥生土器の系統を引き、約700~800℃位の低温で焼かれています。
板碑いたび中世中世の石塔で、薄い板状の石を用いて造られた供養卒塔婆の一つです。
勾玉まがたま縄文時代~中世「C」に近い形状をしており、一端に穴を開けて紐を通し、首飾りとしたものです。材質として土製、石製、ガラス製などがあります。
すき弥生時代~農具の一つで土を耕す道具です。柄は木製ですが、刃などが金属で造られています。
刀子とうす弥生時代~平安時代現在でいうところの「こがたな」であり、ナイフです。金属製のものには木や鹿の把が付きました。
こしき弥生時代~奈良時代底に小さな孔をもつ土器です。蒸し器として使用されたと考えられています。甕で水を沸かし、その上に設置して食材を蒸して調理します。
土器埋納土坑どきまいのうどこう弥生時代埋葬した遺体が白骨化した後、遺骨を土器に入れて再び穴に埋納したもので再葬墓と考えられます。縄文時代末から見られ、特に弥生時代前半に東日本において発達しました。
方形周溝墓ほうけいしゅうこうぼ弥生~古墳時代墓の周囲を方形の溝で区画し、内部は土を盛って墳丘としたものです。遺体は内部や溝に埋葬されました。弥生時代前期に畿内で発生し、東日本では中期から古墳時代前期までつくられました。
環濠かんごう弥生時代集落を区切る溝です。環濠で集落全体を囲うのが環濠集落で防御の側面が強い施設です。
耳環じかん古墳時代細い金属製の棒を曲げて「C」字状にした古墳時代のイヤリングで、表面に金や銀でメッキ加工したものが多く見られます。人物埴輪にも表現されており、男女ともに装着したと考えられます。
南多摩窯跡群みなみたまようせきぐん奈良~平安時代武蔵国四大窯跡群(南多摩、東金子、南比企、末野)の一つで武蔵国の国府、国分寺の造営に使用する須恵器や瓦を供給していました。町田、八王子、日野、多摩、稲城の各市にまたがる南多摩窯跡群は7~10世紀に操業しており、そのうち町田、八王子市域が含まれる御殿山支群は9~10世紀に操業していたと推定されます。
墨書土器ぼくしょどき奈良~平安時代文字、絵、記号などが墨で書かれた容器です。役所名、役職名、地名、人名、吉祥句、記号などが書かれました。
かく・くるわ中世城の中の区画のことです。本丸・二の丸などに相当します。
かわらけかわらけ中世ロクロ成形による素焼きの土器です。大量に廃棄された状態で出土することもあるため、宴会や儀礼・儀式において使い捨ての容器として使用されたと考えられます。
地下式壙ちかしきこう中世出入口用として垂直に掘られた竪坑と竪坑から横に掘られた地下室から構成され、中世において盛んにつくられました。用途として埋葬、貯蔵など諸説があります。
小山田氏おやまだし中世平安時代末、武蔵国最大の武士団であり、桓武平氏を出自とする秩父氏の一族、小山田有重が町田市域を開発して小山田荘としました。有重の子、稲毛重成、榛谷重朝は源頼朝に仕えて有力御家人となり、小山田一族は栄えました。しかし、武蔵国の支配をめぐって小山田氏を含む秩父一族は北条氏との争いに敗れ、没落していきました。
宝篋印塔ほうきょういんとう中世名称は「宝篋印陀羅尼」の経文を納めた塔に由来し、日本では鎌倉時代以降、墓標や供養のための石塔として建てられました。
六道銭ろくどうせん中世~近世人は死後、「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人」、「天」の六道を輪廻転生するという仏教思想に基づき、六つの行程の路銀として、さらには三途の川の渡し賃として6枚の銭貨を遺体と一緒に埋葬する風習が生まれました。室町時代以降に確立し、江戸時代まで続きました。
経筒きょうづつ中世紙本経を埋納するための容器。