「歌の聖と画の聖、ふたり眠れりこの郷に」 有名な詩人佐藤春夫が作詞した益田高校校歌の歌い出しです。「歌の聖」とは「柿本人麿」、「画の聖」とは「雪舟等楊」の事で、二人とも日本を代表する文化人であり、ふるさと益田の誇りです。みんな親しみを込めて「人丸さん」「雪舟さん」と呼んでいます。
特に雪舟は、世界的にも有名です。一九五六(昭和三十一)年にオーストリアのウィーンで行われた世界平和評議会で、モーツァルトらとともに、「世界十大文化人」に選ばれ、ルーマニアやソビエト連邦(現在はロシア)で切手に描かれています。日本人としては、初めて外国の切手になりました。
ルーマニアの切手 東方寺(遠田町)提供
ロシアの切手 東方寺(遠田町)提供
雪舟像(藤田美術館蔵)
雪舟は、一四二〇(応永二十七)年に備中赤浜(今の岡山県総社市)の小田家で生まれました。今から六百年ほど前の室町時代中ごろのことです。このころは、将軍の跡継ぎ問題などから「応仁の乱」が起こり、東軍と西軍に分かれて、京都を焼け野原にして争っていました。この騒乱は日本中を巻き込み、やがて「全国各地の大名がおたがいに勢力を争う戦国時代」に突入していきます。
十歳のころに、地元の宝福寺にあずけられた雪舟は、お寺の修行よりも絵をかく事が大好きでした。絵をかくことばかりに夢中になり、和尚の言い付けを聞かなかった雪舟はとうとう罰として柱に括り付けられてしまいました。何時間も括り付けられていた雪舟の目から、ポタポタと涙が落ちました。夕方になり、雪舟のことが心配になった和尚が様子を見に行ったところ、小さな鼠が何匹もいます。「あっ。」と驚いて飛び退きましたが、よく見るとそれは雪舟が床に落とした涙を使って足の指でかいた絵だったのです。感心した和尚は、それから雪舟がいくら絵をかいても、しかる事はありませんでした。
やがて雪舟は、京都五山のひとつである相国寺に入りました。雪舟はそこで立派なお坊さんになるために、春林周藤という師匠の下で学ぶことになりました。周藤は、まだ若い雪舟にこう語りました。
「いいか、雪舟。この寺でしっかりと〈禅〉の心を学ぶのです。」
「わかりました。しっかりと修行に励みます。」
春林周藤は「禅」の第一人者で、その修行は相当に厳しいものでした。雪舟は、師匠のいいつけを守り、熱心に禅の修業に励みました。しかし、どうしても絵の勉強がしたくて、当時有名な絵師周文にも学びました。特に、「禅」との関わりが深い「禅林画」という明の国(今の中国)の絵を熱心に学んだようです。このことから、雪舟はしだいに絵の勉強のために明に行きたいと思うようになりました。このことを仲間のお坊さんたちに話すと、みんなは雪舟を思いとどまらせようとしました。
「雪舟、明に渡るのはやめておけ。」
「途中で嵐にあった船がたくさんあるというぞ。おまえも命が惜しいだろう。」
しかし、雪舟の意志は変わりません。
「いや、絵の勉強をするには、明に渡るのが一番。私はどうしても明に行き、絵の勉強をしたいのだ。」
自分の好きな事を貫き通すために、命をもかけた雪舟は、四十七歳で明に渡りました。
当時の日本の周りの国々
雪舟は熱心に勉強したので、さらに実力をつけていきました。やがて、雪舟の名声は明の朝廷にまで聞こえるほどになり、雪舟は大臣に呼ばれました。
「雪舟、そなたの絵はとてもすばらしいと聞いておる。」
「おほめにあずかり、まことにありがとうございます。」
「そこで、一つ絵を頼みたい。北京の宮殿に竜の絵をかいてほしいのだが、どうか。」
「わかりました。おおせのとおりにいたします。」
こうしてかき上げた雪舟の竜の絵は、当時の中国にもならぶものがないといわれるほど立派なもので、大いにほめたたえられました。また、明の国からその功績を称えられ、「天童山第一座」という栄誉ある地位を授かりました。
明から日本に帰った雪舟は、明の国に行かせてくれた大内氏の治める今の山口市にとどまりました。やがて、大内氏と関わりの深い益田氏は、明の国で認められた雪舟が山口にいることを聞きつけます。そして、当時今の益田市周辺を治めていた大名である益田兼堯の招きで崇観寺(今の医光寺)に落ち着くことになりました。
「この町はいいなあ。海が近くにあり、山がなだらかで、平野も広々としている。どことなく、中国の風景に似ている気がする。この様子を絵にしてみよう。」
晩年の雪舟は、好きな絵をかいて暮らしていましたが、時々地元の人とお酒を酌み交わしました。そうしていくうちに、益田の地だけでなく、益田の人も大好きになっていきました。ある時、益田兼堯は、雪舟に頼みました。
「そなたの風景画はすばらしい。是非その実力を活かして、わしの肖像画をかいてくれんか。」
「わかりました。大好きな益田への恩返しのつもりでかかせていただきます。」
こうしてかかれた「益田兼堯像」は、現在、「雪舟の郷記念館」に納められています。また、雪舟は、“絵ごころ”を何か他の形にしたいと思い、医光寺や萬福寺の庭をつくりました。この庭は、今日もなお、趣のあるたたずまいを見せています。
益田兼堯像
⇒「益田兼堯像」を高精細画像で見る 雪舟庭園(萬福寺)
こうして、益田をたいへん気に入った雪舟は、益田で長く暮らし、東光寺(雪舟の郷記念館近くの今の大喜庵)で八十三年の生涯を閉じたと言われています。
一生をかけて絵に情熱を注ぎ続け、晩年には益田氏や地元の人と交流を重ねた雪舟は、風景画や肖像画にその思いを込めてかいていたことでしょう。また、雪舟の絵を見ると、五百年以上前の室町時代の様子がありありと映し出され、現代の私たちにたくさんのことを教えてくれます。
こうして、雪舟のかいた絵は、その後も長くみんなに愛され、今でも見る人に大きな感動を与えています。
☆もっと調べたい時は、雪舟の郷記念館の人に聞いてみましょう。